名作公開から7カ月後に悲劇が訪れた映画会社の記憶

名作公開から7カ月後に悲劇が訪れた映画会社の記憶
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 町工場が集まる「ものづくりのまち」のイメージが強い大阪府東大阪市が、かつて東洋のハリウッドと呼ばれる「映画のまち」だったことをご存じだろうか。ちょうど100年前に創業した映画製作会社「帝国キネマ演芸」が広大な撮影所を構えて数々の作品を世に出したが、ある悲劇によって活動はわずか11年で終焉(しゅうえん)を迎えてしまう。日本の映画界に確固たる足跡を遺(のこ)しながら、数奇な運命に翻弄された帝国キネマ。その歴史をたどった。(西川博明)

敷地面積1万坪

 帝国キネマは1920(大正9)年、大阪・千日前で活動写真館(現在の映画館)を経営していた山川吉太郎(きちたろう)氏が43歳で創業。北浜の相場師、松井伊助氏の出資を得て、他社が運営する近鉄河内小阪駅近くの小阪撮影所を買収、映画製作に参入したのが始まりだ。

 28(昭和3)年には、現在の近鉄長瀬駅近くに敷地面積1万坪(約3万3千平方メートル)を誇る長瀬撮影所を開設。同撮影所は当時、「東洋のハリウッド」とも呼ばれ、市内各地で撮影した映画を次々に生み出していった。

 「(帝国キネマは)大正末期から昭和初期にかけ、日活や松竹と並ぶ日本3大映画会社だった」。そう振り返るのは、創業者のひ孫で大阪・十三(じゅうそう)でレジャービルを運営するサカエマチ中央ビル(大阪市淀川区)の社長、山川雅行さん(55)。東大阪に撮影所が置かれたのは「大阪という都会に近く、広い敷地も手に入ったから」とみられる。

 大阪市は当時、人口や工業出荷額で東京府東京市をしのいで日本一を誇り、「大大阪」「東洋のマンチェスター」と称された時代だった。

 空前の大ヒット作となったのは、30(昭和5)年2月に封切られた無声映画『何が彼女をそうさせたか』(原作・藤森成吉、監督・鈴木重吉)。不幸な家庭で生まれ育った女性の半生を描いた作品で、映画雑誌「キネマ旬報」で同年の優秀映画第1位に輝いた。

火災で夢の跡に

 同作の公開から約7カ月後。不運が重なる主人公と同じように帝国キネマにも突如、悲劇が訪れた。9月30日未明、原因不明の火災で長瀬撮影所が全焼。同社の名前は翌年消滅し、撮影スタッフの大半は京都・太秦の撮影所に移った。