勇者の物語~「虎番疾風録」番外編~田所龍一(120)

サクラ咲く 慶大不合格…意地でも大学へ

法大へ進学した江川(右)は黄金期を作った=神宮球場
法大へ進学した江川(右)は黄金期を作った=神宮球場

■勇者の物語(119)

阪急の入団交渉を避け続けた江川卓は、どこで何をしていたのか。実は栃木・小山市の自宅にはほとんど帰らず、東京都内のホテルで、同じく慶大を受ける仲間たちと一緒に、懸命に受験勉強に取り組んでいた。

昔は慶大も「スポーツ枠」があり、実力のある選手は合格できた。だが、昭和49年当時はその制度も厳しくなり、一般学生と同じように受験しなければならなかった。国立大学並みにレベルが高い-といわれた慶大。「江川」の名前だけで通れる門ではなかった。

阪急の丸尾千年次(ちとじ)編成部長も江川の慶大合格は苦しい-と感じていたのだろう。12月7日、父・二美夫さん不在の江川宅を訪れ、母親・美代子さんにこんな話をしていた。

「大学受験を勧めました。ただし、野球だけで入学させるような大学はダメですよ。進学するなら自力で…と」

丸尾にしてみれば慶大を落ちたときにはプロへ-と誘ったつもりだったのだろう。だが、取りようによれば「お宅の息子の頭では大学は無理。野球でしか進学できない」と言われたようなもの。

「話を聞いてほしいというのでお聞きしましたが、主人が在宅なら玄関から一歩たりともお入れしなかったでしょう」。美代子さんは怒っていた。

江川の慶大受験は失敗した。法学部、文学部、商学部とことごとく不合格。だが、阪急へは見向きもしない。「意地でも大学へ」と江川家の意思は固まっていた。丸尾の〝失策〟でもあった。

2月23日、法学部に落ちたとき、江川は一緒に受験勉強していた静岡高の植松精一外野手や水野彰夫捕手と相談。「慶大がダメでも一緒に野球をやろう。それなら甲子園の仲間のたくさんいる法大へ行こう」と法大法学部(二部)の願書を出していたのである。

3月13日、東京・飯田橋の法大法学部学舎の掲示板に合格者が貼りだされた。「01932 エガワ スグル」。江川のサクラは咲いた。

「法大を受験すると聞いたときから諦めていた。どうしても欲しかった…。入学が決まった以上、潔く諦めるしかない」と上田利治新監督。阪急の〝江川獲り〟は終わった。(敬称略)

■勇者の物語(121)