次々と下位球団の新監督が決まっていった。大洋は青田昇から宮崎剛へ。広島は別当薫→森永勝也、ヤクルトは三原脩→荒川博。新球団の日本ハムは日拓時代の土橋正幸から中西太に交代。パ・リーグ最下位の近鉄だけが岩本堯(たかし)の後任が決まらずにいた。
近鉄は評論家からOB、他チームの現役監督やコーチまで25人もの候補者を挙げ交渉した。噂に出た名前だけでも青田昇、吉田義男、根本陸夫、中西太…。口説きにいった候補者から新たな候補者を推薦される一幕も。
彼らが敬遠する原因は、常に起こる監督と球団フロントとの確執-といわれた。昭和32年に芥田武夫監督が退陣して以来、千葉茂、別当薫、岩本義行、小玉明利、三原脩、岩本堯-と6人の監督が、岩本、小玉を除いてみな3年交代。しかもほとんどが退陣の際に捨てぜりふを残しての〝喧嘩別れ〟だった。
「一時しのぎの監督ではもうチームの立て直しは図れない。これを機に長期政権を任せて基礎作りからやり直す必要がある。みなさんがアッという人を…」と今村宣彦球団代表は語っていた。
11月14日、サンケイスポーツの1面に『近鉄監督に西本氏』の大見出しが躍った。まさに世間はアッと驚いた。なんと、阪急へ監督を勇退したばかりの西本幸雄の〝譲渡〟を申し込んでいたことが明らかになったのだ。
西本の処遇について阪急の森薫オーナーは「彼は球団の功労者である。そのまま残ってもらい、彼の能力、手腕をフルに発揮できるポジションを与えるつもり」と語っていた。譲ってほしいといわれて簡単に「はい、どうぞ」と渡せるものではない。当然、断った。だが、近鉄は諦めない。交渉に当たった近鉄の今里英三オーナー代理はこう語った。
「正直いって初め実現は難しいと思っていた。なかなかお願いする勇気が出せなかった。でも、近鉄を立て直せるのは西本さんしかいない。勇気を奮い起こし、お願いしました」
今里オーナー代理は、単に近鉄の再建のためだけではなく「パ・リーグの発展のために…」と懸命に説いた。その熱意に森オーナーは動かされた。そして12日、西本の気持ちを確かめたのである。(敬称略)