勇者の物語

1年たたず 再び球団身売り 虎番疾風録番外編114

1年足らずで再び身売りとなった日拓ホームフライヤーズ(右から土橋監督、張本、金田)
1年足らずで再び身売りとなった日拓ホームフライヤーズ(右から土橋監督、張本、金田)

■勇者の物語(113)

まさか、こんな状況になろうとは…。日拓・西村昭孝オーナーは悔しさで胸がいっぱいになった。

東映フライヤーズから「日拓ホームフライヤーズ」になったのは昭和48年1月16日のこと。それから1年もたたない間に再び身売り話が起こったのだ。

田中角栄首相が提唱した「日本列島改造論」に乗り、栃木・那須の別荘地を分譲するなど無名だった不動産会社の日拓ホームは爆発的に業績を伸ばした。47年「週刊ダイヤモンド」が選出した〝日本のベスト1000社〟にも477位に選ばれた。

だが、球団を買収したころから日本経済は雲行きが怪しくなってきた。地価の高騰にともなって卸売物価が急上昇、未曽有のインフレに陥った。その打開策として「金融引き締め」が行われたのである。これによって中小の不動産会社の多くが倒産。日拓もその大きな波にのみ込まれた。

球団誕生のときには7色のカラーユニホームで注目を集めたフライヤーズも結局、前期5位、後期4位(通算5位)と低迷。球団の維持が難しくなった。西村オーナーはロッテと球団合併することで撤退を図った。だが、「球団が減ればリーグの存続自体が危うくなる」と、10月17日のオーナー懇談会で猛反発に遭い断念。買い手を探すことになった。

西村のもとには建設会社や洋服メーカー、外国資本の保険会社などが名乗りを上げてきた。だが、どの会社も決め手に欠けた。そんな中、朗報が飛び込んできた。大手食品加工メーカーの「日本ハム株式会社」(本社・大阪市北区=大社<おおこそ>義規社長)がプロ野球界進出を考えている-という。仲介したのはパ・リーグの岡野祐(たすく)会長。

11月1日、東京・銀座の東急ホテルで岡野-西村会談が行われ、岡野から日本ハムの意向が正式に伝えられ、7日から本格交渉が行われることになった。

1年に2度の球団身売り。この年、後期から田宮謙次郎に代わって2軍監督から昇格し「1軍監督」に就任していた土橋正幸の心境は複雑だった。

「さぁ、この先、どうなるんだろう。こんなときは、監督よりも選手の方が気は楽だね」。悲しい本音だった。(敬称略)

■勇者の物語(115)

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