昭和48年のシーズンオフは多くの「将」たちがチーム不振の責任を取ってユニホームを脱いだ。
【日拓】田宮謙次郎。東映時代から引き続き采配をとったが、前期25勝37敗3分けの5位。後期からチーム生え抜きの土橋正幸が監督に就任。
【近鉄】岩本堯(たかし)。2シーズン制は投手力の強い近鉄が有利といわれたが、その投手陣に故障者が続出。前期最下位で8月に休養、そのまま退任。
【大洋】青田昇。60勝64敗6分けの5位。10月24日、最終戦の中日戦(川崎)の試合後、「ことしで契約も切れる。チームも5位。責任を取って身を引くのは当然だ」と辞任。
【広島】別当薫。慶大の同窓生でもあるオーナーの松田耕平に招かれ、48年シーズンの采配を振るった。〝学友コンビ〟でチーム再建-と期待されたが60勝67敗3分けで2年連続最下位。10月31日に松田へ「辞意」を伝えた。
「最下位になったことに責任を取りたい。辞める以上はきれいに辞めたい」
別当の辞任は球団フロントとの感情のもつれが原因といわれた。広島は根本陸夫監督時代から、いろいろな規則を作り〝鉄の規律〟を敷いてきた。だが、48年シーズンは門限を破る選手が続出。交通事故を起こす不祥事も…。この規律の乱れをめぐり「選手の管理は監督の責任」とするフロントと対立したのである。
【ヤクルト】三原脩。62勝65敗3分けの4位。この年で契約切れ。球団は「続投」を予定していた。ところが、中西太ヘッドコーチに来季の「2軍監督就任」を打診したことから紛糾した。
球団は中西コーチが入団した際の約束、「将来は監督に」という条項を重視。3年間のコーチで得た経験に磨きをかけるため2軍で勉強させよう-と図った。ところが、この案に中西が猛反発した。当時、中西は荒川博打撃コーチや「将来の監督候補」といわれた武上四郎らと対立。この球団案を「降格」「排除」と受け取ったのである。
中西は三原の娘婿。放っておくわけにはいかなかった。三原は10月25日、慰留する球団に「中西を含めて来季の契約を辞退する」と連絡。退団会見も行わずにユニホームを脱いだのである。(敬称略)