話の肖像画

東京五輪 女子バレー金メダリスト・井戸川絹子(81)(7) 世界一にも満足せず

1964年東京五輪で旧ソ連戦に臨む日本チーム。中央が大松監督、左から2人目の水を飲んでいる選手が本人 =昭和39年10月23日、東京・駒沢屋内球技場
1964年東京五輪で旧ソ連戦に臨む日本チーム。中央が大松監督、左から2人目の水を飲んでいる選手が本人 =昭和39年10月23日、東京・駒沢屋内球技場

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《1960年にリオデジャネイロで開かれた第3回世界選手権に日本は初めて出場。決勝で旧ソ連に敗れるも、銀メダル獲得が評価され、61年に大日本紡績貝塚工場(日紡貝塚)が単独チームで欧州に遠征した。大会などで22連勝を達成、海外メディアが付けた異名が「東洋の魔女」だった》

欧州遠征のときには6人制に対応できて22連勝、私たちは数えていなかったので、日本に帰って新聞で知りました。チェコの大会だったかな。現地メディアが「東洋から魔女が来た」と書いたんです。最初は「なんで魔女なの」と思いました。日本では魔女って鼻が長くて、人を化かすどちらかといえば悪いイメージがあるでしょ。でも、欧州では普通の人ができないことを成し遂げた人を魔女と呼ぶと知って、それならいいと思いました。(若い人などから)たまに「東洋の魔女って何ですか」と聞かれたら、知らないのと逆に聞き返して意地悪することもあります(笑)。

《62年にモスクワで開かれた第4回世界選手権決勝で旧ソ連に雪辱し優勝。日本の団体球技として初めて世界一に輝き、帰国後は盛大に優勝パレードが行われた》

世界選手権で優勝した帰りは世界一周旅行に連れて行ってもらいました。世界一のご褒美として事前に約束していました。ハワイの海はきれいでした。でも、当時は選手が体を冷やすことはダメでしたから、海岸をはだしで走るわけでもなく、観光もゼロ。「みんな気持ち良さそうに泳いでいるね」「きれいな海ね」と会話するだけでしたが、普段行けないところに連れて行ってもらえたことはうれしかったです。ホテルでおいしいものを食べてのんびりと過ごしました。日本に帰ったら優勝パレードをして、みなさんにお祝いしてもらいました。

《世界選手権で優勝し、大松博文監督(故人)と選手たちは引退を表明。しかし、撤回することになる》