話の肖像画

東京五輪 女子バレー金メダリスト・井戸川絹子(81)(6) 父親代わり「仏の大松」

欧州遠征へ出発する日紡貝塚バレーボール部。下から2人目が本人 =昭和39年
欧州遠征へ出発する日紡貝塚バレーボール部。下から2人目が本人 =昭和39年

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《大日本紡績貝塚工場(日紡貝塚)に入社して2年後の昭和35年、初めての海外遠征を経験した。遠征先はインドネシア。地元チームとの練習試合が続くなか、食事は楽しみの一つだった》

パスポートはチームのみんなと一緒に取りに行ったのですが、何度も書類を書き直しながら苦労して取りました。インドネシアにはスーツを着ていった記憶があります。遠征中の練習は昼前から午後2時頃までしかないので、気分的に余裕がありました。練習中、監督の大松博文先生(故人)が怒って先に帰ってしまうこともありました。三輪人力車の「ベチャ」に乗って。でも、後ろ向きに座るベチャだったので、「練習に戻ってほしい」と追いかける私たちと先生と目が合うんです。気まずそうな先生を見ておかしくて、大笑いしました。楽しい思い出です。

食べ物は何でもいただきました。大松先生も好き嫌いなく食べられます。でも、主将の河西昌枝さん(故人)はお肉が食べられない。お魚だけ。お肉が出ると「はいタニ(旧姓・谷田(たにだ))」「はいタニ、これも」と私のお皿にのせてくれました。パンとか牛乳、ジャム以外は何も食べない人もいましたね。レストランで席に着いたら、「ジャムとバターをください」と日本語で言う人もいました。最初は通じるわけがないんですが、そればかり頼むから持ってきてくださるようになりました。ある日、食卓に揚げ物が出てきたんです。中身は知らなかったのですが、そのお肉がすごくおいしくて。でも、先っぽから骨が見えたんです。向かいの席に座った現地の方に「これ何ですか」ってジェスチャーで聞いたら、カエルのポーズをしてね。みんなびっくりしてしまって、それからはほとんどの人が食べなくなりました。私はおいしくいただきましたけど。アイスクリームはおいしかったです。味は万国共通。食事はアイスだけという人もいましたよ。

《バレーボールが盛んな欧州やモスクワなどにも遠征した。海外では6人制が主流だったため、9人制に慣れた日紡貝塚はルールの違いに戸惑った》

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