話の肖像画

東京五輪 女子バレー金メダリスト・井戸川絹子(2) 人生の分岐点「四天王寺」

バレーボールの名門・四天王寺高校に進学した井戸川絹子さん(右)=本人提供
バレーボールの名門・四天王寺高校に進学した井戸川絹子さん(右)=本人提供

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《大阪府北部の池田市で生まれ育った。実家は阪急池田駅前の牛乳配達店。6人きょうだいの末っ子だった》

当時、6人きょうだいは珍しくなかったですね。小学校には今みたいにスポーツクラブはなかったです。缶蹴りとか鬼ごっこ、かくれんぼをして毎日遊んでいました。うちは父親が早くに亡くなり、母親が商売をしていたので、家族旅行にも行けませんでした。だから、家業の手伝いをしながら三国中学校(大阪市)でバレーボール部のコーチをしていた6歳上の兄(故・弘さん)が、バレーの大会があるといつも連れていってくれました。小さい頃からバレーは身近だったんです。中学校では本当は陸上部に入りたかった。走るのだけは速くて、100メートル走は負けたことがなかったのです。中学3年間はずっとトップ、マラソンはだめでしたけど。でも、陸上部は男子だけで女子はすぐに辞めるから入れないといわれたんです。そのためテニスやソフトボールをしていたのですが続かなくて、2年生になってバレー部に入りました。

《当時のバレーボールは9人制。中学入学時は身長は159センチと小柄だったが、ジャンプ力を見込まれ、ポジションは前衛のレフトだった》

中学の頃は「将来あんな選手になりたい」という目標はなかったです。部活なので毎日行かないといけなかったのですが、バレーをおもしろいと思ったことはなかったです。練習はグラウンドですよ、体育館がある学校なんて少なかったですから。部活に入らなくてもよかったのなら、絶対に入っていなかったと思います。

負けず嫌いではなく、勝負ごとに勝ちたいという欲もなかった。100メートル走では自然に勝ってしまう。バレー部は男子を兄がコーチとして教えに来てくれていました。女子は「お前がいるから行かん」と教えてくれなかったのですが、練習は毎日嫌でも行っていました。私は右利きでジャンプ力があったので、レフトを任されて少しずつ試合に出ました。3年生になるときちんとアタッカーとして育ててもらいました。家が牛乳配達店だったので、牛乳はたくさん飲んでいました。そのためか、体は丈夫でした。

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