話の肖像画

東洋の魔女、東京五輪女子バレー金メダリスト・井戸川絹子(81)(1)「試合に勝つ」だけ考えて

東京五輪女子バレーボール元代表・井戸川絹子さん=4日午後、大阪府豊中市(彦野公太朗撮影)
東京五輪女子バレーボール元代表・井戸川絹子さん=4日午後、大阪府豊中市(彦野公太朗撮影)

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《1964年の東京五輪女子バレーボールは、大日本紡績貝塚工場(日紡貝塚)の選手を中心とした日本代表が、五輪開催前から「回転レシーブ」を武器に国内外で連勝を重ね、「東洋の魔女」の呼び名で世界に名がとどろいていた》

あれからもう56年もたつんですね。みんなで話し合って東京五輪に出るって決めたときは「絶対に勝たなあかん」と意気込んでいましたけど、本番では軽い気持ちになっていました。「五輪? そりゃ頑張らなあかんね」とひとごとみたいに。だって試合になればどんな相手にでも勝たなきゃいけない。大阪でやる試合も五輪も、試合という意味では同じですから。相手は日紡(貝塚)をやっつけようと、一生懸命向かってきます。どの試合も勝つことだけを考えていました。

《井戸川さんを含め、東京五輪の日本代表12人中10人が日紡貝塚の所属選手だった》

日紡貝塚は貝塚市(大阪府)にあった会社ですから、大阪に住んでいたメンバーが多いんです。主将兼コーチだった河西昌枝さん、磯ちゃん(磯辺サタさん)は亡くなってしまいました。年齢とともにみんなと連絡を取ることは少なくなりましたけど、年賀状は出しています。

《今夏開催されるはずだった東京五輪は、新型コロナウイルス感染拡大の影響で来夏に延期された》

気の毒という言葉は使いませんが、選手の立場だとショックですよね。立ち直るのが大変。もういいわって、気持ちが切れてしまってもおかしくないです。でも五輪のために何年も練習してきたのですから、来年は何とかやってほしいと思います。五輪の延期がなければ春に聖火ランナーとして地元の池田市を走る予定でした。現役の頃から膝が痛くて、今も痛いんです。周りの人は「歩いてもいいのよ」って言うし、実際に歩いてもいいらしいですけど、そんなこと言われたら余計に走るわよ、と思います。素直になれないんですよ、昔から。今はどこか体が痛ければ痛いって言いますけど、現役のときはそんなん言わないで走っていました。練習中にちょっと休ませてとは言わなかったし、言えなかった。みんながいる手前ね。私だけじゃない。みんな体のどこかが痛いけど練習していました。(聞き手 岡野祐己)

【プロフィル】井戸川絹子(いどがわ・きぬこ)

1939(昭和14)年、大阪府池田市生まれ。旧姓・谷田。中学2年でバレーボールを始め、四天王寺高卒業後、大日本紡績(現ユニチカ)貝塚工場に就職。当時としては長身の168センチの体格を生かし、エーススパイカーとして活躍。62年の世界選手権優勝、64年東京五輪の金メダル獲得に貢献した。東京五輪を最後に現役を引退。現在もママさんバレーボールチームで監督を務める。

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