日本シリーズの間にプロ球界は大きく動いた。パ・リーグの危機を救おうという〝拾う神〟が現れたのである。
西鉄ライオンズには、男子プロゴルフ「太平洋マスターズ」を主催する総合レジャー産業の「太平洋クラブ」(小宮山勇社長)が立ち上がった。
「このままでは西鉄が連盟預かりになる。パの雪崩現象を防ぐために力になろうと考えた」と小宮山社長。奔走したのはロッテの中村長芳オーナー。「ペプシ」との話がご破算になったあと、懸命に財界筋との折衝を重ねてきた。
「(1リーグで)セ・リーグにすがってやっていくくらいなら、やめた方がいい-なんて意地も半分あったんだよ」
昭和47年10月27日、午前10時半、福岡市天神の西鉄本社で記者会見。ロッテを辞めてライオンズの新オーナーに就任した中村は少し胸を張った。
監督も稲尾和久が留任した。周囲では「心機一転、監督も新しい人材を-」という意見も出されたが、中村は「稲尾でいく」と頑張った。23年間、九州のファンとともに育ってきた西鉄ライオンズ。44年の『黒い霧事件』の中、瀕死(ひんし)のライオンズを必死に支えたのは稲尾監督だった。
「その稲尾監督を九州人でもないボクがクビにしたらどうなるかね。ファンは当然、ソッポを向く。ライオンズを九州に残した意味もなくなってしまう」と周囲を説得したのである。
年が明けて48年1月16日、東京・銀座の東急ホテルで東映フライヤーズの「日拓ホーム」への売却が発表された。
「メリットを考えて買収したわけではない。野球が好きで、プロ野球を発展させなければいけないと思って引き受けた。プロ野球は青少年育成に大きな影響力がある。老人や恵まれない人たちを、1回は無料で球場に招きたい」
新オーナーに就任した西村昭孝社長は力強く抱負を語った。そして東映の大川毅オーナーは「昭和29年から皆さまにかわいがってもらい、本当にありがとうございました。一抹の寂しさはあるが、これでいいんだ…」と肩を震わせた。
斜陽といわれた映画会社から、当時の首相・田中角栄が打ち出した「日本列島改造論」のブームに乗る不動産会社へ。〝時の流れ〟を反映していた。(敬称略)