舞台を西宮球場に移した第3戦、阪急は第2戦に続き足立が先発。巨人も3連投のエース堀内が先発した。
阪急打線が四回に堀内をとらえた。2死一塁で加藤秀は2-3から5球ファウルで粘った。「わざとファウル? そんな器用なことできるかいな。必死にバット振ってたよ」。11球目、真ん中のストレートを加藤は必死で振った。打球は快音を残して左翼ラッキーゾーンへ飛び込んだ。
◇第3戦 10月25日 西宮球場
巨人 100 000 020=3
阪急 000 221 00×=5
【勝】足立1勝 【敗】堀内2勝1敗
【本】加藤秀①(堀内)②(渡辺)長嶋①(足立)
打線の援護に足立の右腕は冴(さ)えた。長嶋にはストレートでカウントを稼ぎ、外角のカーブに泳がせ、最後はシンカーで打ち取る。王には「歩かせてもいい」と気楽にスローカーブをきわどいコースに投げ分けた。
阪急はV9時代の巨人と日本シリーズで5度対戦、28試合で8勝20敗。そのうち5勝を足立が挙げた。〝巨人に勝った男〟なのである。
足立光宏には自負があった。それは時を少し遡(さかのぼ)らなければならない。
足立は昭和34年、社会人の「大阪大丸」から阪急に入団した。当時は〝ヨネカジ〟(米田哲也、梶本隆夫)コンビ全盛時代。一方で「灰色の阪急」-ともいわれた時代だった。
キャンプの練習も勝手に休む。シーズン中の移動日は宿舎に着くやすぐに夜の街に出かける。西本幸雄が「監督」に就任し「弱いチームはやるのが当たり前や」と移動日の練習を指示しても、「アホらしい」と途中で帰る選手も現れた。その反発者の多くは投手。「野手と投手は調整の仕方が違う。野手あがりの監督にはそれがわからんのや」というわけ。
41年10月14日、あの『信任投票事件』が起こった。「支持しない」(7票)のほとんどが投手陣。米田も梶本も「×」を投じた-といわれている。その投手陣の中で足立は「〇」と書いた。
「この監督についていけば勝てる」と信じたからだ。オレは西本監督を選んだ…それが足立の〝自負〟。マウンドでの大きな力となったのである。(敬称略)