勇者の物語

背番号変更 自ら「打倒巨人」の旗頭になる 虎番疾風録番外編92

昭和47年シーズン、西本監督は背番号「65」をつけた
昭和47年シーズン、西本監督は背番号「65」をつけた

■勇者の物語(91)

「打倒巨人」を胸に続投を決意した西本幸雄監督が、最初にやったことが自分の背番号の変更だった。昭和35年、大毎オリオンズの監督に就任して以来、ずっとつけ続けてきた愛着のある「50」を捨てたのである。

46年秋のある日、西本は渓間秀典代表にこう申し入れた。

「背番号を変えたいんですが、何かええ番号ないですか」

「50に飽きたんですかな」

「いや、50の数字は五タコ(5連敗)に通じるので縁起が悪いでしょう」

「なるほど。それならいっそ、100にしたらどうでしょう」

「いやぁ、100はどうも…。道化役者みたいで」

西本は考えた。自分の思いがこもった番号は何か-と。そして、決めたのが「65」だった。

「君らの年代の者は知らんかもしれんが、戦時中に『銃後の守り』という言葉があった。戦場ではなく女性たちが日本にいて軍需工場で働いたり、いろんな人が戦地の兵隊を支えた-という意味や。50にその15(じゅうご)を加えた65なら、どんな敵にも勝つ」。担当記者たちに説明する西本監督の顔は輝いていたという。

西本は『率先垂範(そっせんすいはん)』という言葉を大切にしていた。「将たる者は何事も自ら率先して先頭に立ち、模範を示さなければいけない」という意味だ。

大正9年生まれの西本は昭和18年、学徒動員で応召された。19年、幹部候補生として東京の金陵部隊歩兵第6隊に配属され、そこで45頭の馬の管理を命じられた。1日に4回の餌やりと馬糞(ばふん)の処理が仕事。特に馬糞の処理が難しかった。

糞を地面に落とし馬が踏むと、蹄(ひづめ)の間に毒がたまり生命を失う危険があった。そのために糞が地面に落ちる前に受ける。馬の様子を見て糞をしそうになると缶を持って走るのである。

「若い幹部候補生の命令なんか誰も聞いてくれん」。西本は自ら缶を持って黙々と走り続けた。そのうちに部下たちも自分から仕事をやりだしたという。

これが西本の監督としての〝基本〟である。背番号を変えることで自ら「打倒巨人」の旗頭になることを選手たちに示したのである。(敬称略)

■勇者の物語(93)

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