その他の写真を見る (1/3枚)
岡山県と香川県の瀬戸内海に架かる瀬戸大橋の西側は、塩飽(しわく)諸島と呼ばれる28の島々が浮かぶ。江戸時代、ドイツの学者シーボルトは、塩飽諸島の景色などを目の当たりにして、称賛の言葉を残した。しかし今、塩飽と聞いてもピンとくる人は少ないだろう。
塩飽とは「潮が湧く」の当て字とされる。一見穏やかな海だが、実際は世界有数の複雑な潮流をしている。船の難所であり、高度な操船技術が求められる。それを地の利とし、かつて塩飽諸島は塩飽水軍の拠点だった。
芸予(げいよ)諸島の勇猛な武力集団である村上水軍とは対照的に、塩飽水軍は「船ではなく潮に乗る」というふうに、世界最高レベルの操船・造船にたけた「技術集団」である。彼らの本拠地で「塩飽島」と呼ばれていたのが、香川県の本島(ほんじま)だ。
塩飽水軍は、主に城郭建築の用材運搬や御用船方(ごようふなかた)として活躍し、豊臣秀吉から自治権を与えられていた。また、徳川家康からも朱印状を賜って領地経営を任され、日本で唯一「人名(にんみょう)制」が置かれた。
さらに塩飽衆は幕府らに協力し、海運航路も開拓。その功を認めた幕府は、御城米(ごじょうまい)輸送の特権を与え、塩飽は本島を中心に大いに潤った。
時は移り変わり、回船事業の特権が失われると塩飽は勢いを失う。しかし弁才船(べざいせん)(国内海運で広く使われた木造帆船)の造船技術に優れ、宮大工技術も持っていた塩飽衆は、塩飽大工として活躍するようになる。
香川県の丸亀港から30分ほどで本島に着く。朗らかな田舎道には秋の花々が咲き乱れ、華やかだ。江戸時代に政所(まんどころ)であった塩飽勤番所跡には織田信長の朱印状など重要な資料が展示され、本島が歴史の要所であったとうかがえる。