筆者が阪急担当となった昭和61年シーズン、福本豊は入団18年目、38歳になっていた。盗塁数は1000を超え1033個。チーム内で〝いぶし銀〟のような存在だった。
ある日、ベンチで福本の〝ツチノコ〟バットを持ってみた。太く短くそしてずしりと重い。
「1060グラムもあるんやで。重いけど芯に当たると強烈な打球が飛んでいく。重心を低くして腰の回転で打つんや」
--フクさんのトレードマークですね
「ほんまはノムさん(南海の野村監督)が〝これで打つんやったら、試合で使ったる〟とチャイさん(藤原満)に渡したのがこのバット。それを近大の先輩やった大熊さんがもらって、それをまたボクがもろたんや」
大熊忠義-昭和18年生まれ。福本より1歳年上。浪商高3年のとき2年生エース、尾崎行雄を擁して甲子園に出場。39年に近大を中退して阪急に入団した。背番号「12」。俊足強打の1番打者。45年に福本が1番に定着すると、2番打者としてつなぎ役に徹し、最強の1、2番コンビといわれた。
その大熊も56年に現役を引退。61年は1軍野手総合コーチ、背番号は「72」をつけていた。
大熊は現役時代「左目で投手を見て、右目で一塁の福本を見る」といわれた。福本のスタートが悪いとボールをカットしてファウルで逃げる。打撃練習ではカットや空振りの練習もしていた。ある日の試合前、大熊が福本に尋ねた。
「フク、きょうの投手はどうや?」
「走りにくい投手ですね」
「ほな、ヒットエンドランでいこか」と2人だけのサインを定め、試合で見事に決めたという。
「エンドランに進塁打。大熊さんは何でもできた。ボクが四球で出て二盗、三盗。大熊さんのセカンドゴロで1点。ほんま、最高におもしろかったね」
実は47年、福本が背番号を「40」から「7」に変えたのも、「40番は〝しじゅう〟ケガをする-というてな、あんまりようない。変えてもらえ」という大熊の進言があったからだ。
--なんで「7」番に?
「ラッキーセブンというやん。それにボクの誕生日が11月7日やったから。ただ、当時、7番をつけてた二郎(平林内野手=中京商から41年第2次ドラフトで1位指名)には悪いことしたわ」
フクさんは今でも申し訳なさそうな顔をする。(敬称略)