勇者の物語

熊さんのおかげ 受け継がれたツチノコバット 虎番疾風録番外編83

福本と大熊コーチ。最強の1、2番コンビといわれた
福本と大熊コーチ。最強の1、2番コンビといわれた

■勇者の物語(82)

筆者が阪急担当となった昭和61年シーズン、福本豊は入団18年目、38歳になっていた。盗塁数は1000を超え1033個。チーム内で〝いぶし銀〟のような存在だった。

ある日、ベンチで福本の〝ツチノコ〟バットを持ってみた。太く短くそしてずしりと重い。

「1060グラムもあるんやで。重いけど芯に当たると強烈な打球が飛んでいく。重心を低くして腰の回転で打つんや」

--フクさんのトレードマークですね

「ほんまはノムさん(南海の野村監督)が〝これで打つんやったら、試合で使ったる〟とチャイさん(藤原満)に渡したのがこのバット。それを近大の先輩やった大熊さんがもらって、それをまたボクがもろたんや」

大熊忠義-昭和18年生まれ。福本より1歳年上。浪商高3年のとき2年生エース、尾崎行雄を擁して甲子園に出場。39年に近大を中退して阪急に入団した。背番号「12」。俊足強打の1番打者。45年に福本が1番に定着すると、2番打者としてつなぎ役に徹し、最強の1、2番コンビといわれた。

その大熊も56年に現役を引退。61年は1軍野手総合コーチ、背番号は「72」をつけていた。

大熊は現役時代「左目で投手を見て、右目で一塁の福本を見る」といわれた。福本のスタートが悪いとボールをカットしてファウルで逃げる。打撃練習ではカットや空振りの練習もしていた。ある日の試合前、大熊が福本に尋ねた。

「フク、きょうの投手はどうや?」

「走りにくい投手ですね」

「ほな、ヒットエンドランでいこか」と2人だけのサインを定め、試合で見事に決めたという。

「エンドランに進塁打。大熊さんは何でもできた。ボクが四球で出て二盗、三盗。大熊さんのセカンドゴロで1点。ほんま、最高におもしろかったね」

実は47年、福本が背番号を「40」から「7」に変えたのも、「40番は〝しじゅう〟ケガをする-というてな、あんまりようない。変えてもらえ」という大熊の進言があったからだ。

--なんで「7」番に?

「ラッキーセブンというやん。それにボクの誕生日が11月7日やったから。ただ、当時、7番をつけてた二郎(平林内野手=中京商から41年第2次ドラフトで1位指名)には悪いことしたわ」

フクさんは今でも申し訳なさそうな顔をする。(敬称略)

■勇者の物語(84)

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