1年目、38試合で4盗塁しかできなかった福本豊が、2年目の45年シーズンには75盗塁をマークし、初の「盗塁王」に輝いた。長足の進歩である。
「足は短いけどな」と福本は笑う。実はその裏には一人の〝師匠〟の存在があった。浅井浄(きよし)マネジャー兼トレーニングコーチである。
昭和39年の東京オリンピックの陸上400メートルリレーの日本代表選手。阪急電鉄に入社した浅井は福本が入団した43年12月にブレーブスへ出向。そして西本監督から「あいつの足はものになる。見たってくれ」と命じられた。
「初めボクの走り方は腕が横振りで、体は揺れるし、スピードもでなかった。それを浅井さんが本物のプロの走りに変えてくれたんよ」
1歩目は腰を切り左足で踏み出す。顎を引き頭を揺らさない。腕はまっすぐ垂直に振る。頭を上げず低い姿勢を維持する-。福本は徹底的に走り込んだ。
「気ぃついたら、盗塁王になっとったわ」
福本には〝神様〟と仰ぐ人がいる。36年から40年まで5年連続で盗塁王に輝いた南海の広瀬叔功(よしのり)である。松下電器時代、南海ファンだった西岡堆二(たかじ)監督に「松下の広瀬になれ!」といわれ、背番号「12」をつけた。
「試合のとき挨拶はするけど、話しなんてとんでもない。雲の上の人やった」
初の盗塁王を獲得した45年オフ、雑誌の企画でその広瀬と対談した。話が終わった後、福本は思い切って尋ねた。
「広瀬さん、盗塁のコツを教えてください。ピッチャーのどこを見て走ったらええんですか」
「アホ、そんなもん、自分で探せ。よう見たら分かる」
けんもほろろに断られた。それから数日たったある日、松下時代の友人が盗塁を撮った8ミリフィルムを持ってきた。「3年でやめるつもりやったから、記念にと頼んでたんや」という。みんなでビデオを見た。近鉄戦、投手は鈴木啓示。そのときである。
「あっ、これや!と思ったね。本塁へ投げるときと、一塁へ牽制(けんせい)するときの体の動き、顔の向き、グラブの位置が微妙に違うんや。広瀬さんのいう通り、よう見たら分かった。コツさえつかんだら、どんな投手でも違いが分かった。新聞や雑誌の〝間違い探し〟みたいにね」
走る「技」に盗む「目」。世界の盗塁王が完成しつつあった。(敬称略)