勇者の物語

俊足強打 オールスターに選ばれる選手になれ 虎番疾風録番外編81

初めて盗塁王になった昭和45年、福本の背番号は「40」
初めて盗塁王になった昭和45年、福本の背番号は「40」

■勇者の物語(80)

「フクさん、先に行って」と加藤秀司からいわれた福本豊は、その言葉通り1年目の昭和44年シーズン開幕を1軍で迎えた。なぜ、死ぬほどきつかった練習に耐えられたのだろう。

43年12月末、福本は大阪市北区の球団事務所で入団契約書にサインした。ドラフト7位には記者会見もない。ふとみると事務所内に西本幸雄監督の姿。あわてて挨拶にいった。

「こんど入団しました福本です」

「おお、そうか。頑張ろな」

この一言にしびれた。

「〝頑張れよ〟とちゃうんや。頑張ろな-や。そこには〝オレと一緒に〟の思いが入ってる。7位の選手にそんなこという監督がおるか」

福本には西本監督に怒鳴られた記憶が少ない。加藤が一度「ボクばっかり叱って、なんでフクさんは叱らへんのですか?」と尋ねたことがある。すると西本は「フクは逃げよる。お前は向かってくるやろ」と答えた。要領がよかったのだ。

数少ない思い出の中で、福本は2つの怒鳴り声だけは忘れないという。

4月13日の開幕カードの東映3回戦(西宮)でのこと。福本は八回、アグリーの代走で出場した。12日の1回戦で八回、長池徳二の代走で二盗に失敗。2度目の起用だった。今度も足がすくんで動かない。走るタイミングも合わない。それでもなんとか初盗塁に成功。ホッとした顔でベンチに戻ると、いきなり怒鳴り声が飛んできた。

「もっとはよ走らんかい! うしろの打者のことも考え!」。それ以降、3球目までに走るよう心掛けた。

2つ目の怒鳴り声は2年目の45年のこと。1軍に定着し「1番・中堅」で出場する機会が多くなったある日、試合前の打撃練習で、遊撃方向へ転がす打球を打っていた。実は南海のブレイザーコーチが「福本は三遊間にゴロを打てば、内野安打も増えて、もっと打率が上がる。実に惜しい」と言っているのを耳にしたからだ。すると-

「何じゃそのバッティングは、もっと強う振らんかい! もう使わへんぞ! お前の代わりなんかなんぼでもおる。怖さのない打者はウチにはいらんのじゃ! なんぼ体が小そうても、ツボにきたら一発放り込む。オールスターに選ばれる選手になれ-ちゅうのは、そういうことや!」

俊足強打の福本。背番号「40」時代の話である。(敬称略)

■勇者の物語(82)

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