阪神の「田淵指名」は大きな波紋を呼んだ。特に田淵家では…。
当時は今のようにドラフト会議のテレビ中継はない。午後1時前、会場にいる記者から東京・目白の田淵家に「阪神が1位指名」の電話連絡が入った。
「どうして阪神が息子を指名したのか…解せない」と父親の綾男さんが首をひねった。というのもドラフト直前に田淵家に挨拶にきたのは巨人と大洋と南海で、阪神のスカウトは一度も来ていなかったのだ。
田淵もショックの色は隠せなかった。
「ガッカリですよ。指名順位を聞いたとき、東映か東京になると思ったんだけど…。もっとも東映や東京にしたって、行かないけど」
第4回ドラフトの1位指名選手は次のように決まった。
①東 映 大橋穣 内 亜大
②広 島 山本浩司 外 法大
③阪 神 田淵幸一 捕 法大
④南 海 富田勝 内 法大
⑤サンケイ藤原真 投 全鐘紡
⑥東 京 有藤通世 内 近大
⑦近 鉄 水谷宏 投 全鐘紡
⑧巨 人 島野修 投 武相高
⑨大 洋 野村収 投 駒大
⑩中 日 星野仙一 投 明大
⑪阪 急 山田久志 投 富士鉄釜石
⑫西 鉄 東尾修 投 箕島高
それにしても、なぜ、阪神は直前になって、挨拶もしていない田淵の指名に踏み切ったのだろう。
ドラフト会場で戸沢一隆球団社長に「田淵指名」を進言したのは佐川直行スカウト。実は10年前の昭和33年、佐川は当時、早稲田実業のエースで4番だった王貞治の獲得に奔走していた。熱心な佐川の勧誘に一度は王も合意した。ところが契約直前になって巨人に奪われてしまった。その巨人の鼻をあかす好機到来-と、勝負に出たのである。
「わたしは王君を獲得するのに失敗した。それが原因になってそれからの阪神は巨人に勝てない。責任を感じている。したがって10年に一人出るか出ないかの逸材である田淵君は絶対に逃せない。誠意を尽くして交渉する」
この決断は多くの選手の〝運命〟を変えた。直前で田淵を取られた南海は富田、東京は有藤、そして巨人は島野を指名。島野を1位で予定していた阪急は富士鉄釜石のアンダースロー山田を指名し、西鉄は箕島高の東尾を…。こうして〝花の44年組〟の輝く野球人生が始まったのである。(敬称略)