プロ野球界には「花の44年組」という言葉がある。それは昭和43年11月12日に行われた『第4回ドラフト会議』で入団した選手たちを称える言葉である。この年のドラフトは空前絶後の〝大豊作〟といわれた。
注目は〝法政三羽ガラス〟といわれた田淵幸一、山本浩司、富田勝。特に通算22本塁打を放ち、東京六大学の記録を塗り替えた田淵は早くから巨人と相思相愛と噂された。ドラフト前の挨拶では川上哲治監督自らが田淵の自宅を訪ね-
「背番号2を用意している。王-田淵-長嶋と並ぶ〝123クリーンアップ〟を考えている」と夢の構想を打ち明けた。
田淵の希望は在京セ・リーグ。それでも「まず田淵を狙う。彼がダメなときは地元の山本」という広島や東京、南海、東映らが指名に名乗りを上げた。
当時の新聞を見てみると、高校生で注目を集めていたのが神奈川・武相高のエース島野修である。早くから関東高校球界で名をはせ、2年、3年と夏の甲子園大会に出場。大洋、阪急、西鉄が1位指名を用意していた。その他、サンケイが大橋穣(亜大)、中日が星野仙一(明大)、近鉄が藤原真(全鐘紡)。そして阪神が地元、大阪出身の富田(興国高-法大)-という予想だった。
11月12日、東京・日比谷の日生会館7階の国際ホールでドラフト会議は始まった。この年のドラフトは「指名入札制」ではなく、抽選で12球団の指名順位を決めた。まず予備抽選で本抽選でくじを引く順位を決定。そして本抽選。「一番くじ」に当たると、一番に欲しい選手を指名できた。
運命の「1番」は東映が引き当てた。2番広島、3番阪神…巨人は8番、阪急は11番。誰もが東映の田淵指名と思った。ところが、東映は大橋を、続く広島も田淵ではなく山本を指名した。
「在京のセ以外の指名なら、息子は社会人野球の熊谷組に就職させる」という父・綾男さんの言葉が効いていたのだ。
阪神の関係者が座るテーブルがにわかに忙しくなった。首脳たちが顔を寄せてひそひそと相談。そして、敢然と田淵を指名したのである。
「最初に名前が出てくると思っていたが、出ないので迷わずに行った。一番の強打者だし、やってみようと」
阪神の戸沢一隆球団社長はグイッと胸を張った。(敬称略)