【末續慎吾の哲学】望まれない存在? 「平和の祭典」五輪の意義 - 産経ニュース

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末續慎吾の哲学

望まれない存在? 「平和の祭典」五輪の意義

 世界中がコロナ禍での東京五輪をどうすべきか悩んでいる。開催国である日本のアスリートからも「国民の賛意がなければ開催する必要はない」との声があったと聞く。人命が最優先、その通りだ。国民が納得する形での開催、それも大前提だ。

 ただ、アスリートは今、開催の可否を国民や政治に依存し、委ねてしまうのではなく、まず「五輪の意義」を提示できなければならないのではないかと思う。世界のトップで競うことで見える景色、感じること、語れる真実があるからだ。

 僕も若い頃、一般の人たちが立てない日本代表の最前線を体験した。

 スタート前に選手が集まる部屋で、椅子に座ろうとしたら外国選手に「小さい奴はどけ!」と邪険にされ、日本人を見下すような言葉を何度もかけられた。「日本の代表だからこそ、なめられてたまるか」と目尻を釣り上げ、「平和の祭典」の五輪にも、こういった差別感が存在しているのかと憤慨したのを覚えている。

 そして、ドーピング違反による2008年北京五輪400メートルリレーのメダル繰り上がりという事実。国を背負ったリアルな戦い、日本人の尊厳と誇り、差別、平和、フェアネス…それらを肌で感じ、学んだ。

 これまで多くのアスリートが身体を張り、未知への挑戦を繰り返しながらスポーツの社会的地位を必死に押し上げてきた。

 一方で東京五輪の開催に反対する人がいる。日本や世界が直面している新型コロナウイルスは人命に関わる問題で、スポーツより、そちらの対応にエネルギーを注ぐべきだとの声がある。現在、五輪は決して望まれたものではないと思う。アスリート自身、そういう空気を感じているだろう。葛藤があることは充分理解出来る。

 だが、五輪が一度でも「望まれない存在」になってしまうことが、スポーツマンとして悲しい。五輪はあくまで五輪。本来は「平和の祭典」であり、望まれない存在ではないはずだ。

 だから、もっと話し合って欲しい。開催できるか否かだけでなく、「五輪とは何か?」についてを。

 議論を尽くした結果、もし中止という結論に至るのなら全く構わない。五輪という文化の価値を守るため、アスリートはその意義を考え、強く訴えて欲しい。

(陸上世界選手権200メートル、北京五輪400メートルリレーメダリスト)