「風立ちぬ」は堀辰雄(1904~1953年)が、自身の婚約者が死んでしまうという体験をもとに書いた小説。30代前半に書かれた代表作だ。
肺の病に侵されて高原のサナトリウムで療養する節子。死の影が迫りくるなかでも、明るく振る舞う婚約者を、心身ともに支える「私」。限られた生の時間を慈しみ愛し合ったふたりの短い愛の生活が、清らかな文章でつづられている。
小説は昭和13年、野田書房から単行本として刊行された。現在は新潮文庫、小学館文庫、岩波文庫などで重版が続いている。もっともはやく文庫化した新潮文庫は、26年から現在まで126刷、発行部数は199万1千部。新潮社によると毎年、5千部ほどの重版で推移してきたが、平成25年に一気に増えたという。この年、小説をモチーフに、スタジオジブリが長編アニメーション映画を製作して大ヒット。映画が公開されると文庫の売れ行きが急増したため、重版は10万部を超えた。
研究者らが指摘していることだが、作品の魅力は随所にちりばめられた巧みな風景描写にもある。それが作品に深みを与え、読む者を引き込んでいく。
たとえば、4月下旬に初めてサナトリウムの病室に入った日、窓からの風景を〈風が真っ黒な雲を重たそうに引きずっていた。そしてときおり裏の雑木林から鋭い音を●(も)いだりした〉と表現。
初夏の夕暮れ時の病室からは〈…そのあたりの山だの丘だの松林だの山畑だのが、半ば鮮やかな茜色(あかねいろ)を帯びながら、半ばまだ不確かなような鼠色(ねずみいろ)に徐々に侵され出しているのを、うっとりとして眺めていた〉と記す。
光や風、季節とともに移ろう自然の豊かな色彩が、切ない物語に透明感を与えている。しかし、自然を美しく描けば描くほど、死を暗示させ悲しみを誘う。
昭和12年には日中戦争が始まり、やがて第二次世界大戦へと向かい社会が不安な雰囲気に包まれていった。そんな時代に出版されると若者を中心に読まれた。それは忍び寄ってくる死を身近に感じていたからだろうか。
普遍の愛の物語は、時代を超え、いまも静かに読み継がれている。(新潮文庫 430円+税)
渋沢和彦
●=てへんに腕のつくり