昭和42年に話を戻そう。新聞でおもしろい記事をみつけた。正月企画で阪急の小林米三オーナーがブレーブスのことを大いに語っているのだ。題して『お金も出すが口も出す。阪急根性見せまっせ!』-。
「うちには傍系、関連会社がぎょうさんあるけど、ブレーブスは一番、いや、たったひとつの〝不肖の息子〟ですわ。三十何年野球やってきて一度も優勝できん。恥ずかしいことです。けど、親からみたら、そんな息子でもけっこうかわいいもの。ことしはちゃんと〝お年玉〟を出しました。強くなるための資金ですな。そのかわり、ことしは〝カネも出すが口も出す〟ことにしますのや。別にやかましいことは言いまへん。なるだけ球場に足を運んで、選手の具合を見るちゅうことです」
明治42年、大阪府池田市生まれ、当時、57歳。コテコテの大阪弁でまったく気取らなかったという。
「去年の暮れにテレビで南海の鶴岡監督と対談したとき、ええ話を聞いたんです。『阪急は2点ぐらいリードされるとすぐシュンとなってしまう。挽回したろういう気力が見えん』そうです。南海にあって阪急になぜ、その根性がないのか。やっぱり厳しさがないんですなぁ。そやから西本君には〝厳しゅう鍛えてくれ〟と注文してます。南海の選手は〝優勝せなんだらごはんが食べられへん〟と思ってやってます。ウチの選手は成績が悪いのに、威張ってご飯食べとる。そこが大きな違いですわ」
米三はオーナーに就任した昭和36年当初、あまり球団経営に興味はなかった。だが、西本幸雄との交流が深まるにつれて、ブレーブスに惹(ひ)かれていった。大阪・キタ新地での逸話はすでにご紹介した。(第57話参照)
「いまは正直いうて球団は赤字続きです。もうかるようにするには、ええ試合やってファンに喜んでもらうことです。この前、ファンの人からボクの家に電話がありました。ボクは留守をしてたんですが〝宝塚歌劇ばっかり力入れんと、ブレーブスにも目をかけなさい〟と言うてはったそうです。そういうお叱りを受けんような、強いチームにしてみせます」
西本の「信任投票事件」から一転、団結力を見せ始めたチームに、小林オーナーも変化の兆しを感じ取っていたのかもしれない。(敬称略)