話の肖像画

楊海英(25)カルテが武器 名医の決意

国旗掲揚を強制されるモンゴル人
国旗掲揚を強制されるモンゴル人

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《医師として文化大革命(文革)から多くの被害者を救った「内モンゴルのシンドラー」ことジュテークチ氏は、自らも暴力の嵐に巻き込まれていた》

満州国の陸軍軍医学校で日本の近代医学を学んだジュテークチ氏の名声は高く、中華人民共和国内モンゴル自治区政府主席の主治医となります。しかしこの主席が1966年5月、国家を分裂させる危険な「民族分裂主義者」とされて失脚すると、内モンゴルでは主席を支える基盤組織の粛清が始まり、主治医であるジュテークチ氏も巻き込まれました。同年6月には病院やフフホト市内にジュテークチ氏に関する壁新聞が貼り出され、「民族分裂主義者の黒い手先」「日本のスパイ」などの罪名が列挙されたのです。

その後、批判集会が開かれるようになり、ジュテークチ氏は病院の党委員会委員や救急救命センター主任といった要職を解かれました。手術をしてひと休みしていると批判集会に引き出されたり、病院の漢人労働者たちに「サッカーの練習」と称してひたすら蹴られ続けたりしたこともあったといいます。批判集会で罪を認めないジュテークチ氏に、文革を進める造反派は「態度が極めて悪い」と虐待をエスカレートさせます。ジュテークチ氏は暴力によって右耳、右目が不自由となり、下腹部も痛めつけられて男性としての機能を奪われました。67年3月には「牛小屋」と呼ばれる幽閉施設に押し込められ、監禁されることになったのです。

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