スペンサーがベンチでいつも見ているノートに何が書いてあるのか-。石川通訳の答えに長池は驚いた。
「相手投手の弱点やクセが細かく書かれているんですよ」
投手のクセってなんだ?
「例えば、東映の尾崎(行雄)なら、振りかぶった手が頭の上で止まったとき、グラブからボールが見えたらカーブ、見えなかったら直球とか」
それって極秘メモじゃないか!
「いや、彼は喜んで教えてくれますよ」。長池は2度驚いた。そしてすぐに〝スペンサー学校〟の門を叩いた。
球種によって変化する手首の筋。ユニホームのしわの変化やグラブの形まで、投手ごとに細かく教えてもらった。
「大リーガーはこんなことまで研究しているんだ-と、目からうろこが落ちたよ。それを隠そうともしない。オレだけじゃなく、チームのみんながスペンサーから新しい野球を学んだ」
勇者たちが彼に付けたニックネームが『野球博士』である。
ダリル・スペンサー 1928年7月13日生まれ。ジャイアンツやカージナルス、レッズなどを経て、昭和39年に阪急に入団した。背番号は「25」。野村克也によれば「南海のブレイザーとともに、日本にメジャー流の〝考える野球〟を伝えた一人」という。
こんな逸話が残っている。来日2年目の40年7月16日、近鉄戦(西京極)でスペンサーは延長十二回に三塁打を放ってサイクル安打を達成した。ところが、担当記者が誰も話を聞きに来ない。
「どうしてボクを取材しようとしないんだ。これは〝サイクル安打〟という大記録なんだよ」と発言し、日本球界に初めてその存在を伝えた-という有名なお話。事実は少々違うようだ。
当時の新聞を見てみると、「阪急サヨナラ勝ち」「米田2000奪三振」「スペンサー大暴れ」の見出しはあるが、サイクル安打の文字はない。記者たちも彼に話を聞いている。談話がこれだ。
「取材はもういいだろう。他のみんなは京都泊まりだが、オレは帰る。急いでいるんだ」。どうやら、サイクル安打の発言は後日の話だったようだ。
とはいえ、スペンサーの発言がきっかけとなり、日本野球機構が歴史を遡(さかのぼ)って調査し、第1号が阪神の藤村富美男であることが判明。以後、達成者を連盟表彰することになった。(敬称略)