昭和42年シーズンが幕を開けた。4月8日、開幕戦の東映1回戦(後楽園)で、西本監督は長池を「4番・センター」で起用した。その年の12球団〝最年少〟4番打者の誕生である。
各球団の開幕「4番打者」をご紹介しよう。
【パ・リーグ】
阪 急 長池 徳二 外 23歳2カ月
東 映 張本 勲 外 26歳
南 海 野村 克也 捕 31歳
西 鉄 トニー・ロイ 内 39歳
東 京 井石 礼司 外 24歳
近 鉄 土井 正博 外 23歳5カ月
【セ・リーグ】
巨 人 長嶋 茂雄 内 31歳
阪 神 山内 一弘 外 34歳
広 島 興津 達雄 内 30歳
中 日 江藤 慎一 外 29歳
大 洋 桑田 武 内 30歳
サンケイ D・ロバーツ 外 33歳
「うれしかった。青田さんもキャンプのときから〝ことしのイケは25本はホームラン打ちよる〟といってくれてたしね。でも、オレが本当に〝4番打者〟になれたのはスペンサーのおかげ。彼がオレを育ててくれたんだよ」
長池はけっして器用な打者ではない。狙うのはいつも内角球。そのため、外角へ流れる変化球を引っ張って併殺になるケースも多かった。そんなときに声をかけてくれたのが3番を打ったスペンサー。4月30日の東京3回戦からコンビを組んだ。
「併殺なんて気にするな。舞台はオレが作ってやるから、お前は好きなように打てばいい」
舞台を作る? 長池は首をひねった。スペンサーの〝舞台作り〟はすさまじかった。一塁走者に出たときは、二塁へ猛烈なスライディングを敢行、内野手を吹っ飛ばして併殺を防ぐ。そして走者が一塁にいるときには、必ず進塁打を打って走者を進めた。
「ベンチに戻るとき、よくオレのお尻をポンと叩いて〝あのランナーを返すのはお前の仕事〟って笑ってた。凄いバッターだったよ」
長池がスペンサーを「師匠」と仰ぐもう一つの理由があった。それが、『スペンサー・ノート』である。
スペンサーはベンチに座っているとき、いつも小さなノートを見ていた。ときには何か書き込んでいる。長池は気になった。そしてある日、通訳に聞いた。
「ノートに何が書いてあるねん?」(敬称略)