大阪の「王陵の谷」 聖徳太子が見た西方浄土 - 産経ニュース

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大阪の「王陵の谷」 聖徳太子が見た西方浄土

大阪の「王陵の谷」 聖徳太子が見た西方浄土
大阪の「王陵の谷」 聖徳太子が見た西方浄土
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 「王陵の谷」とも形容される地域が、大阪府内にある。敏達、用明、推古、孝徳の天皇陵が点在し、そして聖徳太子の墓所まである太子町だ。日本の礎を築いた古代の偉人達が眠る町。なぜここに御陵は集中しているのか。古代史に思いをはせながら一帯を歩いてみることにした。 

(大島直之)

梅の花びらにも

 横浜市のパシフィコ横浜で日本高校ダンス部選手権を取材中のことだ。ドタバタデスクから電話がかかってきた。「来年は聖徳太子没後1400年にあたるらしいわ。御廟のある太子町にはほかにも天皇陵が集中しているけど、なぜなのか探ってきて。来週中ね」

 新型コロナウイルスの影響で思うように練習できない中、できる限りの力を出し切った高校生たちの姿にウルっときていたのだが、感動の余韻を妨げる慌ただしい指令だ。

 確かに太子町には古墳時代終末期の古墳が集中していると聞いたことがある。町のホームページを見ると、4キロ四方の中に点在する5つの陵墓は、5枚の梅の花びらを想起させ「梅鉢御陵」と呼ばれるとか。躍動するダンスの世界から、古代史の謎か。ギャップは大きいが探ってみよう。

空海、親鸞も修行した聖域

 万葉集にも詠われる「二上山」が東にそびえ、山の向こうは奈良という太子町に着いた。残暑の日差しがきつい。出発前だが「太子最中」で有名な和菓子店「好月堂」でまずは一息。おかみの岩田順子さんは「ウオーキングやサイクリングで御陵をめぐる人がコース途中に店に寄ってくれます」と話す。夏限定のメニュー「アイスもなか(250円)」をほおばる。菊の御紋の最中の皮に栗の入った粒あんとバニラアイス。ちょうどいい甘さと冷たさが口に広がった。

 最初に訪ねたのが「聖徳太子御廟」のある叡福寺。参道には「聖徳太子1400年御遠忌大法会」ののぼりが立つ。広々とした境内を歩くと汗が滝のように流れた。早くもアイス最中の涼が懐かしい。

 本堂の奥に進むと、円墳が現れた。聖徳太子と母の穴穂部間人皇后、妃の膳部郎女の棺が置かれたことから三骨一廟と呼ばれ、空海や親鸞といった高僧が参籠して修行を積んだ聖域だ。汗も止まるような、りんとした気持ちにさせられるたたずまい。日本の国家の礎を築いた聖徳太子の偉業を思う。近藤本龍(ほんりゅう)住職は「今年はコロナの影響で団体の参拝者が減ったものの、太子ファンの若い個人参拝者はいらしてますね」と話す。

大陸への道

 叡福寺から南に抜けると、太子の父で第31代天皇の用明天皇の陵がある。住宅に囲まれ、全容はなかなかつかみにくいが天皇陵としては初の方墳だ。

 「狭いエリアにこれほど色々な形の古墳があるのは珍しい」。町を歩く前に立ち寄った太子町生涯学習課の鍋島隆宏課長補佐の言葉を思い出す。太子町の5つの御陵で、古墳時代から飛鳥時代にかけて墳の形が「前方後円墳」から「方墳」「円墳」と変わる様子が見て取れるという。

 大和と河内をつなぐ日本最古の官道、竹内街道を東に進むと街道沿いに第36代、孝徳天皇陵があった。古い町並みの中でうっかり見落としてしまいそうな参道入り口。急勾配の道を上る。うっそうと木々が生い茂り、コケむした石敷きの道からもひやりとしたものを感じる。厳しい日差しから逃れられるのはいいが、天皇陵とはいえ墓に違いはない。どこかさびしい。ヒャッ。なんだ猫か。

 第30代天皇の敏達天皇陵には、ブドウ畑の中を車一台しか通れない細い道を行く。山林に囲まれた細い砂利道を踏むシャリシャリという足音とセミの鳴き声だけが響く。大学時代はボクシング部で鍛えた不動の心も揺らぐ。全長113メートルの前方後円墳が現れた。太子町にある最も古い天皇陵だ。

 町の南東部に足を向けると住宅は減り、景色は水田に変わった。女帝、推古天皇の陵は周囲を田んぼに囲まれていた。緩やかな参道からは周囲の山や小高い丘が広く見渡せる。のどかな景色にようやくホッとする。

 天皇陵ではないが、科長神社横の急階段を上り、小野妹子の墓とされる小さな塚を訪れた。推古天皇の時代、聖徳太子の命で、中国に渡った妹子。誰もいないその塚の前で、そっと石碑に手を触れる。危険を冒して遣隋使として海を渡った妹子と太子の絆の強さを思うと胸がポッと熱くなる。

 静かな竹内街道に戻った。妹子はこの道を通って大陸を目指し、大陸からの使者はこの道を通って飛鳥を目指した。王陵の谷を巡った後に改めて街道に立つと、この国の始まりの鼓動が聞こえてくるようだ。来年の太子没後1400年には街道の往来もにぎわいを取り戻すのかもしれない。

 政治の中心は奈良・飛鳥にあるにも関わらず、飛鳥時代に活躍した人物の墓はなぜ大阪・河内地方に集中するのか。注目されるのは当時、このあたりに本拠地を構えた蘇我氏の存在だ。太子町生涯学習課の鍋島隆宏課長補佐は「いずれのお墓も蘇我氏一族に近い人物のもの。蘇我氏の本拠地周辺にお墓が置かれたのではないか」と話す。

 蘇我氏は欽明天皇の妃に娘を入れることで勢力を持つようになった。太子町に御陵のある用明、推古、聖徳太子はいずれも蘇我氏の血筋にあたることになる。それによって蘇我氏の影響が強い河内に墓を置いたと考えられるという。蘇我馬子の墓とされる場所も太子の御廟の近くにある。

 また、太子、蘇我氏とも仏教を篤く信仰した。飛鳥から見ると、太子町は西に位置する。太陽が太子町のある二上山の方へ沈んでいく様子に「西方浄土、黄泉(よみ)の国を見たのではないか」と思いをはせる。