西本監督が辞任を宣言した昭和41年10月14日夜、兵庫県宝塚市の西本宅に青田昇ヘッドコーチ以下、全スタッフが押しかけ、「なんとか思い直してほしい」と説得した。だが、西本の辞意は固い。
翌15日、西本は岡野祐(たすく)社長へ正式に辞任を申し入れた。もちろん、岡野は慰留した。話し合いは大阪・梅田の「新阪急ホテル」で午前10時から午後6時過ぎまで行われたが、翻意させることはできなかった。
話し合いを終えた西本を担当記者たちが取り囲んだ。
--どうして、投票などを
「監督を続ける以上、選手がどれだけ自分を信頼しているのかを確かめたかった。今のままでは、膨れつつある風船がいつ爆発するか分からなかった」
--50人近い中で反対11人は多くないと思うが
「いや、自分ではせいぜい3、4票と予想していた。それが3倍近く…。いっぺんに自信を失ってしまった。ただ、あんな形(投票)をとったことについては、軽率だったと反省している」
記者たちの西本への取材は深夜にまで及んだ。それは、単に投票結果だけで辞意を固めたのではなく、もっと他に理由がある-と思われたからだ。その結果、3つのことが分かった。
まず、球団社長-監督間の意思疎通がうまくいっていなかったこと。次に監督の考えるチーム強化が思い通りに進められる環境ではなかったこと。そして3番目の理由として、岡野の暗に監督に対する批判めいた口ぶりも要因のひとつ-とされた。
37年、戸倉前監督の後任問題が起こったとき「西本が監督になったからといって、チームがすぐに強くなるとも思えない」と断言。鶴岡、三原を擁したかった岡野にしてみれば、この4年間の低迷は「ほら見ろ、オレの言った通りだろう」との思いが、心のどこかにあったのかもしれない。16日も話し合いは行われた。だが、決裂。そして、岡野は待ち構えていた記者たちにこう言い放った。
「監督が投票結果以外の理由で辞めたいというのなら、もう、引き留めはしない」
本当に、西本監督を切るのか-と記者たちは色めき立った。岡野は本気だった。ひそかに温めていた再建案、ヘッドコーチの青田を監督とした体制づくりを進めた。そして17日、その案を持って小林米三オーナーを訪ねたのである。(敬称略)