鶴岡一人もしくは三原脩を招聘(しょうへい)する-という岡野構想はもろくも崩れ去った。そして昭和37年11月6日、西本幸雄の「阪急監督」就任が発表された。その席で岡野祐球団社長は西本をこう紹介した。
「優勝の経験もあり、阪急の監督としてうってつけの人物である。三原、水原、鶴岡が日本の〝3大監督〟といわれているが、私はこの中に西本を入れて4大監督と呼びたい」
この豹変(ひょうへん)ぶりに、その場にいた記者たちもあっけにとられたという。
「これまでと同じ陣容で、同じ練習をしていたのでは、同じ結果しか出ない。選手に一大奮起を促す。精神面を充実させることが技術面のプラスになる」
西本新監督は球団にはびこっていた〝悪〟を一掃しようとした。練習に身を入れない。幹部の方針に逆らう。自分のことしか考えない。それが西本のいう「悪」だった。だが、うまくいかない。1年目の38年シーズンは57勝92敗1分けの最下位に終わった。西本の指導はさらに厳しさを増した。ときには鉄拳も振るった。
39年こそ2位になったものの、40年は4位、41年は頼みの梶本が15連敗するなどわずか2勝しか挙げられず、チームは5位に転落した。
精神重視の選手起用と厳しい指導が、一部の選手の反発を招いていた。電話1本で勝手に練習を休む選手。その選手を自宅に呼んで酒盛りをする球団幹部も現れたという。そんなある日、ベテラン記者の言った一言が胸に突き刺さった。
「あなたを信頼している選手は一人もいないぞ」
41年10月14日、秋季練習を前に西本監督は、コーチや選手全員を西宮球場2階の会議室に集めた。便箋を四つ切りにした紙とえんぴつが配られた。
「来季、わたしについてくる気がある者は〇、ない者は×と書いてくれ」
これが、有名な『信任投票』事件である。戸惑う選手たち。気持ちのまとまらないものは白紙で提出した。もちろん無記名。西本は目をつむって座っていた。矢形、白井両マネジャーが無言で集計する。結果は…。
「不信任7票、白票4票」。小さく息を吐いた西本が立ち上がった。
「これからやっていく自信がなくなった。辞めさせてもらいたい」
突然の辞任宣言に選手たちは、ただ呆然(ぼうぜん)と立ち尽くすしかなかった。(敬称略)