勇者の物語

内部昇格 インパクト「弱い」 虎番疾風録番外編54

阪急のオーナーに就任し、記者会見する小林米三(右)。左は岡野球団社長=昭和36年10月13日
阪急のオーナーに就任し、記者会見する小林米三(右)。左は岡野球団社長=昭和36年10月13日

■勇者の物語(53)

西本幸雄が阪急のコーチに就任して1年後の昭和37年オフ、3年間の不成績(4位、5位、4位)の責任を取って戸倉勝城(かつき)監督が辞任した。担当記者たちは、すんなりと西本に引き継がれるものと思っていた。ところが、そうはいかなかった。

コーチ就任の際に西本が求めた〝一札〟があったからではない。阪急は西本に一札を与えてはいなかった。実は当時、球団社長だった岡野祐(たすく)の監督候補の中に「西本」はなかったのだ。

岡野は南海の鶴岡一人監督と3年目が終わった大洋の三原脩監督の招聘(しょうへい)を画策していた。鶴岡はシーズン半ばから采配を蔭山コーチに任せ、すでに監督を「退任」していた。

それにしても、なぜ、岡野は大物監督を狙おうとしたのか。それは、前年の36年10月に小林米三がオーナーに就任したことが影響した-といわれている。岡野は「新オーナーのためにもこの際、大きく球団を変えよう」と考えた。それには西本の〝内部昇格〟ではインパクトが「弱い」と思った。

まさに、大毎オリオンズの永田雅一オーナーが、西本コーチの昇格を「弱い」と断じたのと同じ発想。歴史は繰り返されたのである。

10月29日、岡野は「監督問題」について、記者の質問にこう答えている。

--西本コーチへのバトンタッチが噂されているが

「それはチームにとって、最良の方法とは思っていない。最高は三原監督なり鶴岡監督をもってくること。あわてて西本にすることは、2人を諦めてしまうことになる」

--ということは、西本監督就任はないと

「いま、西本が監督になったからといって、チームがすぐに強くなるとも思えない」

いやはや、西本も見くびられたものである。記者たちもあきれた。すでに鶴岡は「オレは南海の人間だ」と宣言。他球団からの誘いをすべて断っていたし、三原の留任情報も入っていた。

--三原、鶴岡案がうまくいかなくて、それで西本では、西本さんに失礼ではないですか

「西本自身が〝自分より2人の方が力が上〟と思っていれば、失礼なことではない」

このときの岡野発言が、さらなる〝事件〟へつながっていくのである。(敬称略)

■勇者の物語(55)

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