昭和34年オフ、大毎オリオンズの別当薫監督が辞任。後継者問題が起こった。
毎日側はコーチを務めていた西本幸雄の「昇格」を提案した。西本は選手間で人望があった。しかも毎日生え抜きの人間。だが、この案に永田雅一オーナーが反対した。
なんでも〝一流〟が好みの永田は当時、辞意を漏らしていた巨人の水原茂監督の招聘(しょうへい)を狙っていた。「スタープレーヤーだった監督の名声で球団の人気を高めよう」とする永田にとって、西本の名前は弱く、「躍進、大毎の大監督向きではない」と断じたのだ。
ことは思い通りには進まない。その水原が留任。永田は南海の鶴岡一人監督に相談を持ち掛けた。すると-
「これからの監督はネームバリューではないですよ。外を探さなくても、内にいい指導者がいるじゃないですか」と西本を推薦。こうして大毎・西本監督が誕生した。
永田にとってもう一つ気に入らなかったのは、西本が毎日側の推す人間だった-ということ。
人気のなかった高橋ユニオンズを大映スターズが吸収合併してできた「大映ユニオンズ」は、30年代に入り経営難に陥った。そこで32年11月28日、毎日オリオンズと合併。「毎日大映球団」(チーム名は大毎オリオンズ)が誕生した。毎日にしてみれば、救ってやったはずの大映が経営の主導権を握り、オーナーにも永田が。面白い状況ではなかった。さらに、なんでも派手好きの永田のやり方に、次第に毎日側の球団経営への意欲も薄れていった。
永田も毎日色の排除を図った。そんな中で、あの日本シリーズでの〝事件〟は起こった。西本監督の解任を機に毎日新聞は、球団から役員全員を引き揚げ、40年には球団株を売却。プロ球団経営から手を引いていったのである。
余談だが、球界では、パとセで人気の差が広がったのは、毎日の撤退が大きく影響している-といわれている。読売系のラジオ局やテレビ局が、巨人戦をどんどん中継したことで、巨人を中心としたセ・リーグの人気は高まった。25年に正力松太郎が「もう一方のリーグの盟主に」と毎日を引き入れたのも、毎日の持つ放送メディアに期待したから。
西本監督の解任劇-実は、球界を揺るがす〝大事件〟だったのである。(敬称略)