話の肖像画

楊海英(14)大学助手辞し日本へ

大学助手時代に教え子たちと、後列左から6人目が本人
大学助手時代に教え子たちと、後列左から6人目が本人

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《1987年夏、北京第二外国語学院を卒業する時期を迎えた》

当時、中国の大学では学生が就職活動を行うことはなく、大学から就職先を伝えられていました。大学生が職業を選ぶことはなかったんです。北京第二外国語学院は外交部など中央官庁が管轄する大学で、成績優秀者のほとんどが中央官庁の官僚となる。私は外交部への就職を望んでいましたが、一抹の不安はありました。中央官庁は少数民族の採用を控える傾向があり、さらに入庁しても出世の可能性は薄いのです。2019年に朝鮮族の孔鉉佑(こうげんゆう)さんが駐日大使となりましたが、彼は例外中の例外です。

《いやな予感は的中した。自身が伝えられた就職先は大学助手だった》

聞かされた瞬間の感想は、「うわ、最悪」でした。中央官庁で働くつもりでしたから。同級生が商務部や外交部などと伝えられているのに、自分はなんで大学に残らないといけないのか、と。大学在学中、学費は政府が出してくれ、負担したのは食費だけ。こうした事情で学部長からは「国の命令を無視するわけにはいかないだろう」とくぎを刺されました。不本意でも受け入れるしかありません。助手としての生活が始まりました。

大学の助手は通常、教務などの事務作業が中心なのですが、私の場合は2、3年生の日本語を教えるように言われました。2年間は奉仕だと覚悟を決めて仕事を続けましたが、やはり外交など外国と接する仕事がしてみたいとの思いは捨てきれない。88年冬、経済特区になった海南省を訪れる機会があり、北京よりも自由な雰囲気が漂う海南島を1周し、さらに帰りには深センに立ち寄って、対岸の香港を眺めてきました。この旅行中、3年前に大分県山岳連盟の登山隊の通訳をしたとき、日本に留学したいという希望を伝えたところ、快諾してくれた隊員たちのことを思い出しました。留学への思いはますます高まり、北京の職場に戻ると、「留学して日本で学位を取る」との決意が固まっていました。

《日本行きを模索する日が始まった》

日本の複数の大学に手紙を書いたのですが、「私費留学生は受け入れていない」との返事ばかり。こうしたなか、日本にいる知り合いから「別府大学が外国人研究生を受け入れている。そこからいろんなところを受けてみたら」というアドバイスをもらった。ちょうどそのころ、大分登山隊が訪中しており、再びチベットに入るというので北京市内で再会し、別府大の研究生になるための協力をお願いしたんです。またしても快諾をいただきました。大学に辞職願を出したのが89年3月。担当者は「こんなにいい職業を手放すなんてもったいない」とびっくりしていましたね。(聞き手 大野正利)

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