話の肖像画

楊海英(13)運命変えた「大分登山隊」同行

大学2年生の夏、日本の登山隊と(手前右が本人)。ラサのポタラ宮にて
大学2年生の夏、日本の登山隊と(手前右が本人)。ラサのポタラ宮にて

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《北京第二外国語学院2年生だった1985年夏、チベット自治区にあるニンチンカンサ峰(7206メートル)の登頂を狙う大分県山岳連盟の「第2次チベット・ヒマラヤ登山隊」が北京空港に到着した》

当時は改革開放路線が急速に進んでいたころで、多くの外国登山隊がチベット経由でヒマラヤ未踏峰に挑戦していました。その窓口である中国登山協会から大学に、「大分登山隊の日本語通訳として3年生を派遣してほしい」と要請があった。そこで「2年生だが適任」として、私が派遣されることになったのです。ニンチンカンサ峰はチベット自治区の首都ラサを囲む4聖山の一つで、私は登山隊がニンチンカンサ峰にアタックしている間はベースキャンプで待機とされました。チベット仏教を信仰するモンゴル人にとってチベットは格別な聖地です。胸躍る思いでこの仕事を受けました。

登山隊と北京空港で合流したのですが、なんだかみんな顔色が悪い。聞いてみるとちょうど日航機墜落事故が起こったばかりで、口々に「飛行機が怖い」と話していました。私からすれば、あんなに危険極まりないヒマラヤの高峰に挑戦するのに、飛行機は怖いんだなと、なんだか不思議な思いでしたね。

《不自由のない日本語で大分登山隊員たちとの交流を深めた。これが後年、自身の日本帰化に結びつくとは、このときは思いも及ばなかった》

大分登山隊の人たちは非常に親切で、日を重ねるに連れてすっかり仲良くなりました。あるときふと、「将来、日本に留学したいな」とこぼしたら、「おお、おいでよ」とみんなが言ってくれたのです。ただ当時は中国国籍の人が外国に出ることは制限されており、私費留学制度もありません。登山隊員たちも大学の関係者ではないので、どうすれば大学に受け入れてもらえるか、私も含めて見当がつかない状況でした。そのときは「留学なんて夢で終わるんだろうな。いい人たちと巡り合えてよかったな」と感じていましたが、よもやその4年後に私の日本行きが決まりそうなとき、登山隊員の方が約束を守って保証人を引き受けてくれるとは、思ってもみなかったですね。

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