《入学した北京第二外国語学院は中国外交部をはじめとする中央官庁が管轄し、毎年多くの高級官僚を輩出するエリート大学だ。先輩や同級生は高級幹部の子弟ばかりで、初の少数民族の学生となった自身は試練に見舞われる》
入学したてのころは初の少数民族の学生として好奇の目で見られていましたが、やはりだんだんと差別の部分が出てくるんですね。事件が起きたのは1年生のときの学部対抗サッカー大会です。私の所属する日本語学部が英語学部と対戦したのですが、世界の共通語である英語学部は人数が多くて選手層が厚い。一方の日本語学部は人数が足らず、新入生の中で運動ができた私は試合に駆り出されました。もちろん負けたのですが、そこで先輩が「モンゴル人のせいで負けた」と言い出したのです。
若さゆえに勝ち負けで熱くなるのは理解できますが、敗因に民族を持ち出したことは納得できません。私は気が強いのでその先輩と何度か言い合った後、「モンゴル人」を連呼する先輩の腰を、近くにあった野球のバットで1発、打ち抜いたんです。当時の大学は先輩後輩の序列が非常に厳しく、周囲は唖然(あぜん)としてましたね。この一件以降、学校では一目置かれる存在になりました。
《民族だけではなく、中国が抱える戸籍の問題もあった》
中国では1958年に「戸籍登録条例」が制定され、「都市戸籍」と「農村戸籍」の2種類に分けられ、内モンゴルで生まれた私は農村戸籍の出身でした。戸籍ですから生まれたときからその人には付いてまわるもので、自由な移動がコントロールされるばかりでなく、就職先も限られてしまう。
農村戸籍の人が、自分の人生を変えるには大学に行くか、人民解放軍の幹部将校になるしかないんです。農村戸籍で生まれれば、たとえ高校までの成績がよくても、北京や上海などに出て公務員になることはできない。軍の場合、大隊長クラスになって初めて、引退後に都市部で就職できます。都市戸籍と農村戸籍では病院での待遇など、福利厚生の部分で天と地ほどの開きがあり、大学にいた高級幹部の子弟たちは、農村戸籍の人をはなから見下す傾向がありました。
《政府の改革開放路線もあり、大学への少数民族の戸はその後、次第に広がっていった》
3年生のときに主に中国西北部に住むイスラム教徒の回族の子が入学し、その後も満州族の子が入ってきました。さらに87年にはチベットで「旅游(りょゆう)教育訓練十年計画」が始まり、観光開発に重点が置かれたこともあって、その年から英語学部にはチベット人学生が何人かいましたね。
改革開放が進み、外国人も中国を訪れるようになり、私も2年生のころから通訳の仕事をするようになりました。北京を訪れる日本人を案内するのですが、なぜか諸先輩や同級生を差し置いて、私がたびたび大学から指名される。「日本語が一番うまいから」ということでした。入学当初は北京や上海などの大都会の進学校を出て大学に入ってきた高級幹部の子弟たちを「どれだけ高度な教育を受けてきたんだろう」「何でも知っているのではないか」と構えてみていたのですが、だんだんと彼らの実力が分かり始めました。(聞き手 大野正利)