勇者の物語

西本幸雄の条件 もう二度と監督はやりたくない 虎番疾風録番外編51

条件付きでのコーチ就任を受けた西本
条件付きでのコーチ就任を受けた西本

■勇者の物語(50)

さて、時をもう一度、昭和30年代に戻そう。

36年11月21日、短波放送の解説者を務めていた西本幸雄の阪急入りが決まった。いよいよ〝御大〟の登場である。といっても、この時点では戸倉勝城(かつき)監督のもとでの「ヘッドコーチ」就任。

36年の阪急は貧打に苦しんだ。開幕の南海2連戦を米田、梶本で落としたのがつまずきの始まり。開幕10連敗や5月の8連敗などで借金地獄。終わってみれば53勝84敗3分け。首位・南海と33・5ゲーム差の5位に沈んだ。チーム打率・225はリーグ最低。本塁打も南海の117本に対して65本。中田昌宏が29本塁打を放ち、南海・野村克也とタイトルを分け合った-のが唯一の明るい話題。

大毎オリオンズを1年でリーグ優勝に導いた西本の手腕が、どうしても必要だったのだ。

阪急が西本に声をかけたのは、彼が大毎を追われた直後から。幾度となくコーチ就任を要請し、そのたびに断られていた。ところが、11月に入って西本の気持ちに変化が…。〝条件付き〟での就任に傾いたのである。その条件とは-

「このコーチの要請は、絶対に将来の監督就任を含んだものではない」という一札を球団に求めたのだ。球団は驚いた。普通、こうした要求は逆が多い。だが、西本の心は違った。

もう二度と監督はやりたくない。もし阪急が将来、自分を監督に…と考えているのなら、受けられない。球団に求めた一札にはそんな意味が込められていた。大毎追放-というつらい経験が、西本をそこまで傷つけていたのである。

35年オフ、大毎の永田雅一オーナーは、一度は西本監督の「続投」を決めた。だが、年が明けると突然、宇野光雄の監督就任を決定。西本に「コーチ」か「2軍監督」を-と詰め寄った。

西本は『私は一生懸命やって一塁に駆け込んだが、アンパイアがアウトと言っている』の名言を残して辞任した。

後年、西本は日本シリーズ終了から退陣を決めるまでの心境をこう語った。

「漬物の重石を抱かされた気持ちだった。がっかりもしたし、世の中のことが分からなくなった。人に使われることの悲しみをしみじみ味わった。もう少し報われてもいいんじゃないか…と愚痴もでた。毎日、七面鳥のように顔色が変わる自分が情けなかった」

西本を追い詰めた永田オーナーとの〝確執〟。その発端となった35年、大洋との日本シリーズとは…。(敬称略)

■勇者の物語(52)

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