話の肖像画

楊海英(11)異例づくし「外語大」合格

大学入学記念に人民大会堂前でクラスメートと。前列左から3人目が本人=北京市内、1983年
大学入学記念に人民大会堂前でクラスメートと。前列左から3人目が本人=北京市内、1983年

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《1983年9月、北京第二外国語学院日本語学部に合格した。周恩来が外交官の養成を目的に設立した大学で、卒業生には王毅国務委員兼外相ら高級幹部が名を連ねる名門校だ。高校時代に選択した日本語は、他の追随を許さないほどの進歩を遂げていた》

日本や米国などと違って中国では、実力があればどこの大学にも入学できるわけではないんです。大学入学者数は省や自治区ごとに割り振りがあり、戸籍地別に人数を設定している。共産党の高級幹部の子弟が集中する北京と上海の入学者数をまずは優先して決め、その後に内モンゴルなど地方の省や自治区の入学者数を調整するというのが実情とされています。私の第1志望は北京大学東方言語文学部でしたが、高校の進学担当の先生から「北京大学は今年、内モンゴル自治区から生徒は取らない」と言われました。「日本語をやるならもっといい大学がある」と勧められたのが北京第二外国語学院だったのです。高校時代の先生に恵まれたため、日本語にはどんどん興味を持つようになっていました。

《入学早々、意外な事実が明らかになる》

初めて大学に登校した日、なぜか担任の先生が私を待っていたのです。開口一番、「ああ、来てくれてよかった。学院長も会いたいと言っています」とのこと。その理由を聞くと、「知らないでしょうが、あなたの入学を決めるのに学院長会議が何回も開かれたのです」。入試の点数には自信があったので「どうしてですか」と尋ねたら、「本学にとって初めての少数民族の学生だから」との答えでした。

担任の先生に詳しく聞いてみると、私はこれまでの北京第二外国語学院の入学者で「初の少数民族」であり、「初の一般家庭出身」、そして「初の大都市部(北京、上海、広州、ハルビン、瀋陽)以外の出身者」など異例づくしだったとのことで、「入学を許可するか、学院内でかなりもめた」との説明でした。「モンゴル人に外国語ができるわけがない」などの意見もあったらしいのですが、「成績で取るべきだ」という日本語学部の学部長の意見が通ったとのことでした。

《運命を変えた学部長は日本からの華僑だった》

熊本から来た蘇埼(そき)さんという女性でした。49年に共産党による中華人民共和国が成立し、60年代には祖国に誕生した新中国をサポートしようと、世界中の華僑が愛国運動で帰国しました。蘇学部長もその一人でしたが、66年に始まった文化大革命(文革)で愛国華僑たちは「米国のスパイ」「資本主義の手先」などとして冷遇された。愛国華僑たちも文革の被害者なんです。蘇学部長は少数民族である私を気に入ってくれて、「日本語の入試の点数は一番いい、この子を取る」と推して譲らなかったということでした。

図らずも異例の措置で入学したわけですが、まわりは海軍の幹部将校の娘やある国際交流協会の秘書長の息子といった高級幹部の子弟ばかり。週末になると、大学の寮には黒塗りの高級車が続々と横づけされ、学生たちが北京市内の自宅に帰っていく。こうした事情もあり、寮に入ったときには先輩や同級生がわざわざ私を見に来ていました。みんなモンゴル人は初めてとのことで、「草原からどんなヤツが来たんだ」と興味津々の様子でした。(聞き手 大野正利)

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