勇者の物語~「虎番疾風録」番外編~田所龍一(49)

背番号「38」 移籍申し出 「阪神の米田です」 

阪神に移籍した米田は背番号「38」を付けた=昭和50年
阪神に移籍した米田は背番号「38」を付けた=昭和50年

■勇者の物語(48)

巨人への移籍騒動から10年後の昭和50年6月、またしても米田哲也のトレード話が沸き起こった。といっても、今回は少々、事情が異なっていた。2軍落ちしていた米田から移籍を申し出たのである。

この時、入団20年目の37歳。18年連続で二けた勝利を重ね、勝ち星はすでに338勝に達していた。当時の監督は上田利治。ルーキー山口高志や白石静生(広島から移籍)の加入。戸田善紀、竹村一義らの成長で米田の出番は激減していた。6月7日から2軍落ち。10日に移籍を申し出た。

「金田さんの記録(400勝)にも挑戦したいが、今の状況ではチャンスがない。セ・リーグの投手力の弱いチームなら、まだ働ける場所があると考えた。球団には〝最後の花〟を咲かせるため無理を聞いてほしいとお願いした」

球団は慰留した。というより、来季からコーチとして若手の指導に当たってほしいと考えていた。話し合いは何度も行われたが、6月17日、球団がおれた。

発表会見に立ったのは森薫オーナー。10年前「米田は出さない」と言った小林米三は44年2月10日、「癌(がん)性腹膜炎」のため、59歳の若さで亡くなっていた。

「20年にわたって阪急一筋に生き、多くの功績を残した彼に報いるため、本人の意思を尊重することが一番良い道と判断しました」。米田はこの言葉に大粒の涙をこぼした。

獲得に手を挙げたのは大洋と阪神。大洋は条件の上積みを提案したが、米田は単身赴任を嫌い阪神を選んだ。

6月23日、入団発表が行われた。31年に〝二重契約〟の騒動の中で1度、袖を通して以来のタイガースのユニホーム。感慨深いものがあった。背番号は「38」。338勝、来年には38歳。「自分に区切りをつける意味を含めて」選んだ番号だった。

6月26日、甲子園球場で行われた阪神-巨人8回戦の試合前、5万2千人の大観衆が見つめるグラウンドの中央に米田は立った。

「阪神の米田です」。ウォーという地鳴りのような歓声が起こる。

「タイガースの優勝のため頑張ります。よろしくお願いします」。大歓声が米田を迎え入れた。ベンチに戻ってきた米田は大きく息を吐きこう言った。

「やっぱり、よう入るな」(敬称略)

■勇者の物語(50)