昭和20年の終戦から75年の節目を迎えた15日、多くの戦没者がまつられる靖国神社(東京都千代田区)では早朝から続々と参拝者が訪れ、鎮魂の祈りがささげられた。
【午前5時半】境内の神門前には開門を前に礼服を着た参拝者らが早くも列を作りはじめた。
【午前6時】「ドンドン」という太鼓とともに神門の扉が開くと、参拝者は新型コロナウイルス対策で、待機列には1メートル以上の間隔が設けられた目印に沿って並び、順に拝礼。戦没者へ思いをはせていた。朝イチで訪れた台東区の荒川春代さん(73)は「亡くなられた方々があって今がある。日本人なら当たり前のことと思って毎年、この日に参拝している」と話した。
【午前7時】正式参拝が開始となり、この頃になると、参拝待ちの列は神門の外にまで伸びた。先の大戦でおじ2人を失った国分寺市の鈴木勇さん(76)は「まだ小さかったので写真での記憶しかないが、おかげ様で今の平和があると感謝を示した」。1人は輸送船を撃沈され、もう1人はシベリアで命を失ったという。「末永く今の世の中が続いてほしいということに尽きる」と言葉を絞り出した。世田谷区の安東嗣彦さん(73)は「戦争の良い悪いは立場で違うかもしれないが、戦地へ赴き命を失った方々には未来永劫(えいごう)、敬意を持たないといけない」と語った。
【午前8時ごろ】小泉進次郎環境相が参拝に訪れる。終戦の日に閣僚が参拝するのは4年ぶり。父の純一郎元首相は首相在任中、平成13年から18年まで年1回の参拝を続けた。
【午前9時ごろ】萩生田光一文部科学相が参拝。私費で玉串料を奉納した。その後、萩生田氏は記者団に「尊い犠牲となられた先人の御霊に謹んで哀悼の誠をささげた。政治家として、恒久平和を次代にしっかりと守り抜いていく不戦の誓いを新たにした」と述べた。
【午前9時半】参道の列は100メートル以上に伸び、参拝者は扇子やうちわを仰いで暑さをしのぎながら列に並んだ。毎年訪れているという横浜市の無職、斉藤晶則さん(73)は「毎年暑さは堪えるが、今年はマスクを付けていなければいけない。多少参拝を躊躇(ちゅうちょ)したが、やはり、ご英霊のみたまに今年も変わらず感謝を申し上げたかった。今の状況を大空から悲しんでおられるのでは」と口にした。
ロシア人の会社員、バシリエフ・コンスタンチンさん(42)は友人の会社員、落合宏明さん(43)に誘われて初めて靖国神社を訪れた。落合さんは「日本を知ってもらいたくて誘った。特に遊就館は客観的に歴史を学べる場所。外国の方も見るべきだ」と話す。コンチスタンさんは「ロシア人も戦争で多くの犠牲が出た。平和が続くよう祈る」と語った。
【午前10時】能楽堂前で英霊に感謝と敬意をささげるため、毎年恒例の放鳩式が行われた。宮司が「ありがとうございました」と述べ、約50羽の白い鳩が飛び立った。初めて見学したという自営業、棚橋祐美さんは「厳かな中に温かさや清らかさがあった。平和のために犠牲となられたご英霊に恥じないよう、精進しようと感じた」と口にした。
【正午】黙祷(もくとう)をささげようと拝殿近くに集まった参拝者らは、1分前が告げられるとその場で姿勢を正していた。黙祷の間はセミの鳴き声だけが響いていたた。正午を回って日差しはさらに厳しさを増し、黙祷が終わった直後には麦茶の無料給水に人だかりができた。
【午後0時20分】元東京都知事の石原慎太郎氏が参拝。到着殿を出ると、出待ちの参拝者らの前に歩み寄り、「目と鼻の先で追悼式やっているのに天皇陛下も総理大臣もなぜ参拝されない。何を恐れているのか」と呼び掛けると、拍手が湧き起こった。
【午後1時ごろ】炎天下の中、2時間以上参道に並んでいる参拝者も。午前10時に靖国神社を訪れた東京都杉並区のパート、三島恒紀さん(78)は、午後1時を過ぎてやっと参拝を済ませた。暑さでふらふらになりながら、数歩歩いては休んでを繰り返す。つえもつかず、毅然(きぜん)と並び続けたのは、戦時中の痛ましい記憶が残るからだ。
国鉄の社員だった父を持ち、鳥取県で生まれ育った。終戦間際、軍艦の乗組員として出兵する若者を乗せた広島行きの電車は、昼夜を問わず日に何本も走っていた。家から毎日見ていたその若者たちの姿が目に焼き付いて離れない。
「船は全て沈没させられた。みんな犠牲になって今も海の底に沈んでいるのかと思うと、悲しくて、情けなくて、涙が出る」
毎年この日は欠かさず靖国神社を参拝しているといい、「経済力は落ち込むばかりだが、国際競争に負けない日本でいてほしい。日本国が永遠であるようにと、国を守ってくれたご英霊に手を合わせました」。
【午後2時半ごろ】猛暑が厳しさを増し、日傘を差す人の姿が目立ち始めた。埼玉県蕨市の会社員、河原未久さん(23)は友人と2人で、携帯扇風機を片手に参拝者の列に並んでいた。同居する祖母が今年75歳を迎えることから、初めて訪れたという。
祖母は長崎県出身。戦後は九州地方を転々とした後に関東地方へ嫁いだというが、「つらい時代だったのだろう」と考え、これまで詳しいことは聞いたことがない。戦後75年を自分なりの節目ととらえ、祖母を連れて長崎市の国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館を訪れようと計画していた。
だが、新型コロナウイルスの感染が拡大。「家族で話し合ってやめようと決めたけど、せめて電車で行ける範囲でと思い、ここに来た。家に帰ったら、祖母自身や祖母の両親の暮らしぶりや体験を聞いてみたい。これからどんどん記憶も薄れていくだろうから」
【午後4時ごろ】夕刻が近づき始めても、参拝者は絶えない。人々が通る大鳥居の脇では、フルートやサックスの伴奏に乗せて軍歌を口ずさむ人々もあった。演奏は午後2時ごろから2時間以上続けられ、通りがかりの参拝者も耳を傾けていた。
主催する団体は、軍歌を一つの文化ととらえ、歌い継ぐことで後世に残したいという思いから、5年前からこの日に靖国神社で演奏や歌唱を行っているという。
代表の女性は「大正や昭和の初めは、老いも若きもこぞって歌った歌が、今ではカラオケでも歌えない。実力のある作曲家や作詞家が残した作品は、当時の『国民歌』だったと言ってもいい」と話した。
【午後4時半ごろ】靖国神社近くの九段下駅周辺ではこの日、戦争や世相をめぐる演説やビラ配りが行われ、警備に当たる警視庁の捜査員らが警戒を強めていた。
夕刻になると、神保町駅付近で、靖国通りを練り歩いて靖国神社を目指すデモ団体の行進が始まった。沿道の交差点は一時封鎖され、拡声器を使ったシュプレヒコールが上がった。主張が対立する団体同士が道沿いですれ違う際には罵声を浴びせあうなど、周囲は騒然となった。
【午後6時過ぎ】日が傾くころには幾分涼しくなり、警察による周囲のデモ警戒も解かれた。参拝に向かう人の数もやや減り、鳥居の下で一礼して去る人の数が増えた。それでも、警備員らが「間もなく閉門します」と告げた後も、祈りをささげようと境内へ駆け込む親子連れの姿が見られた。
ほどなく参拝は締め切られ、神社に3つあるうち、2つの門扉が閉められた。靖国神社は本来の静けさを取り戻し、せみ時雨だけが響き渡っていた。
萩生田光一文部科学相ら午前中に参拝した4閣僚以外の閣僚参拝はなかった。