話の肖像画

楊海英(7)称賛できない共産党

小学校の卒業写真。前から3列目、左から5人目が本人
小学校の卒業写真。前から3列目、左から5人目が本人

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《小学校を卒業し、1976年に中学生になった。入学したのは意に反して農業学校だった》

文化大革命(文革)で父が打倒すべき「搾取(さくしゅ)階級」とされたため、私は生まれた町の学校に通えませんでした。将来を心配した母は自分の実家に私を預け、母の実家から小学校に通うことになったのです。その家は同じ内モンゴル自治区オルドスにあるのですが、最南端に位置し、放牧中心だった自宅のある地域とは雰囲気が違う。万里の長城に近く、1930年代に建国前の中国共産党が延安を拠点としていた頃から、農耕民族である漢人が北上して大量に入植し、先住民であるモンゴル人との同化を進めた。私が移った頃は圧倒的に多い漢人により、かつての豊潤な草原はすっかり開墾され、畑の広がる農耕地域となっていました。

中学も母の実家の近くに通うことになりましたが、やはり搾取階級出身とされて普通の中学校には入れず、日本でいえば農業の職業訓練学校のようなところに入学しました。この学校は生徒のほぼ全員が卒業してすぐ農民になるので、授業は「とりあえず字が読めたらいい」という程度。労働力が足りなかったこともあり、農業実習が必須で、半日は農作業、残り半日で授業という毎日でした。

《農耕中心の生活に苦しんだ》

中学からは母の実家を離れて寮生活となったので、漢人の農耕生活が一日中、続くことになりました。牧畜民の私にはつらい日々でしたね。とくに豚小屋のにおいには閉口しました。モンゴル人は豚や鳥などといった放牧をしない家畜の肉は食べないので、豚のにおいには最後まで慣れることができませんでしたね。

他の農耕実習にも身が入らず、休日になると、寮の近くにあった小高い砂丘に登って、実家のある北の方角を眺めていました。遠く数十キロほど先にまだ漢人が入植していない放牧地域の草原がみえ、「なんでこんな環境の違うところにいなくてはいけないんだろう」と嘆いていましたね。

《成績はよかったが、優等生ではなかった》

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