新型コロナウイルスの影響で高齢の遺族らが参列を見送る中、杉山英夫さん(82)=静岡市=は遺族代表で追悼の辞の大役を担った。「戦後75年たっても100年たっても、戦争の悲惨さ、怖さ、理不尽さを伝えていかなければいけない。何があっても出席するつもりだった」。
ナシ園を営んでいた父、甚作さんに召集令状が届いたのは昭和18年3月。英夫さんは当時5歳。神社で肩車をしてくれたのがかすかに残る思い出。浜松市にあった高射砲第1連隊に母たちと一緒に赤飯やおはぎを持っていき、食事をしたのが最後の別れになった。
甚作さんは本土防衛のためにフィリピン・ルソン島に赴き、20年6月に命を落とした。「如何にか懐かしい故郷の山、川を思い、愛しい妻子、優しい家族を夢に見たことでしょうか」。追悼の辞では、父や英霊たちの無念を代弁した。
父が亡くなったのと同じ頃、英夫さんは静岡大空襲を経験。爆撃機の音や警報発令のサイレンが今も耳を離れない。戦後数年たち、「父もそのうち帰ってくるだろう」と思っていたところに届いた戦死公報と空っぽの骨箱。家業の農作業中に「父がいれば相談に乗ってくれたかな」との思いがよぎることもあった。
腰が痛む現在も静岡県遺族会会長や日本遺族会理事を務め、孫世代に戦争の記憶を継承する難しさを実感する。コロナ禍で慰霊事業もままならないが、「慰霊は国民の務め。それが恒久平和の道につながる」と信じている。