■自由と平和を守り抜くために
いつもとは違う「八月十五日」を迎えた。中国・武漢発の新型コロナウイルスの猛威はやまず、日本武道館で行われている全国戦没者追悼式は、参列者を昨年の10分の1以下に当たる約530人に制限して行われる。正午にサイレンを鳴らし、プレーを中断して球児や観客が黙祷(もくとう)してきた夏の高校野球全国大会も先の大戦以来の中止となった。
終戦の日に大勢の参拝者が訪れる靖国神社を1日早く詣でると、「感染予防のため間隔を空けてください」との立て看板が立ち並んでいた。いつもは満々と水をたたえている手水舎(ちょうずや)も水が抜かれ、柄杓(ひしゃく)もなく、竹筒から落ちる水で手を清める感染防止策がとられていた。
戦没者の遺品や武器などを展示している遊就館は、いつものように開いていた。久方ぶりに参観したが、1万余に及ぶ戦死者の遺影が掲げられている1階の展示室に入ると、自然と頭が下がる。
◆なぜ首相は靖国に行かぬ
残念ながら今年も安倍晋三首相が靖国神社を参拝する予定はない。
それでいいのだろうか。
「戦時下」とも表現されているコロナ禍で人々が不安に駆られている今こそ、一国のリーダーが、戦没者の霊を慰め、人々の安寧を祈るときである。
時あたかも、世界情勢は緊迫の度を増している。世界的に「鎖国」状態が続く中、「米国第一主義」が象徴するように、大国のむき出しのエゴがあからさまとなっている。
何よりも米中対立が、コロナ禍によって一層、拍車がかかったことが世界情勢をより厳しくしている。
中国の習近平国家主席はきっと気を悪くするだろうが、いまの中国は、かの国の教科書が、蛇蝎(だかつ)のように嫌い、最大限の非難を浴びせかけている「悪い大日本帝国」のイメージ通りの行動をみせている。
第1は、言論の自由の封殺だ。香港での民主派弾圧は、常軌を逸している。いまだに死傷者数もはっきりしない「天安門事件」の香港版だが、治安維持法を根拠とした特高警察による左翼や自由主義者の弾圧は、児戯のように見えてしまう。
第2は、異民族への非寛容さである。新疆(しんきょう)ウイグル自治区やチベット、内モンゴルでの漢民族の振る舞いは、満州国での日本人のそれをはるかに上回っている(少なくとも満州国では、日中蒙などの民族融和を意味する「五族協和」を建前にしていた)。
極めつきは、軍事力の膨張だ。南シナ海に軍事基地を次々と築き、空母を新造して米国の神経を逆なでしているのも大日本帝国と同じ軌跡を歩んでいる。