話の肖像画

楊海英(5)狙われた内モンゴル

内モンゴル自治区で吹き荒れた文革。写真は批判闘争にさらされる政府高官、王再天氏(右、楊海英氏所蔵)
内モンゴル自治区で吹き荒れた文革。写真は批判闘争にさらされる政府高官、王再天氏(右、楊海英氏所蔵)

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《自著『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』に「文化大革命(文革)の惨劇は内モンゴル自治区から始まった」と記した。発端は、文革遂行を決めた1966年5月の中国共産党中央政治局拡大会議とほぼ同時に開かれた「党華北局会議」、通称「前門飯店会議」だった》

中国共産党にとって、モンゴル人には2つの前科がありました。1つは32年に満州国が成立したとき、日本軍に協力したこと。もう1つは日本が去った45年8月から、モンゴル人民共和国との統一を進める独立運動を行ったことです。60年代の中ソ対立により、中国共産党はソ連の衛星国モンゴル人民共和国とは敵対関係で、この国と接している内モンゴル自治区の動向に神経をとがらせていた。ソ連とモンゴル人民共和国の軍隊が攻めてきたとき、首都北京の北口玄関である内モンゴルに住むモンゴル人はどちらの味方になるのか、重要な問題だからです。

その頃の内モンゴルの政治リーダーで初代自治区政府主席、ウラーンフーは若くしてモスクワに留学し、建国前から毛沢東や周恩来、劉少奇らと活動したエリート党員です。17年のロシア革命に応じて、内モンゴルの知識人たちが25年10月に立ち上げた「内モンゴル人民革命党」に参加しましたが、この党が後にモンゴル人民共和国との統一を進める独立運動を起こしたとき、ウラーンフーは内部工作で党を解散に追い込みました。中国共産党にとって内モンゴルを中国に取り込んだ功臣でもあったのです。

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