話の肖像画

楊海英(4)強いられた「文明的生活」

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《1924年にモンゴル人民共和国が成立し、モンゴル人の居住地は中国内の内モンゴルと南北に分裂した。生まれ故郷の中国内モンゴル自治区オルドスは、豊かな草原が広がる遊牧民の町だった。この地の南方に接する陝西(せんせい)省延安に、中国共産党の紅軍(こうぐん)が拠点を移したのが35年10月ごろ。紅軍はやがて満州国の影響を排除する名目で、万里の長城を越えてオルドスへ侵入するようになった》

オルドスにはモンゴル語で湿地帯を表す「シベル」と呼ばれる土地があります。貴重な水が豊富で、以前は美しい草原があり、家畜の放牧に最適な土地でした。北上してきた中国共産党はここに広大なケシ畑を作って活動源にしていたといわれています。

49年に中華人民共和国が設立されると内モンゴル自治区となり、農耕民である漢人の入植はさらに進み、美しい草原は見る間に農耕地に変わっていきました。私の父は人民解放軍を除隊後、オルドスに3台しかなかったトラクターの運転手をしていたことがあります。「いい草原ばかりを耕すよう命じられた。開墾した畑は今ではみんな砂漠になってしまったよ」とよく嘆いてましたね。

《文化大革命(文革)で搾取(さくしゅ)階級として打倒され、家族は家屋とモンゴル人の命である家畜を取り上げられた。その後、生産大隊から「文明的な生活」を送るように命じられた。農耕の強要だった》

搾取階級だった私の家族は、文革における「改造」の格好のターゲットでした。立ち遅れた放牧をやめて文明的な農耕をするようにいわれ、家のまわりの草原を畑に開墾させられました。しかし畑には適しておらず、5年間の農耕で、家のまわりはすっかり砂地となってしまいました。

なんとか分けてもらったヒツジも監視の対象になりました。使っていた井戸を囲むように畑を作られ、ヒツジに水をやりに井戸に行くと、漢人の農民たちは爆竹で追い払うのです。夜、こっそりと井戸に行き、水を飲ませていました。あるとき、井戸に汚物を入れられたことがありました。さすがに祖母が「何度か家を襲撃した匪賊(ひぞく)でさえ、井戸には手をつけなかった」と抗議したのですが、今度は「革命的群衆を匪賊に例えるとは許しがたい」と、かえって新しい罪をかぶせられ、批判されてしまいました。

《食生活の激変にも苦しんだ》

ヒツジもヤギも国有化され、勝手に乳を搾ったり、食肉にしたりするわけにはいかなくなった。代わりにパンやウドンなどが配給されるのですが、モンゴル人は乳製品や肉でなければ力が出ません。昼間でもなるべくエネルギーを消費しないよう、日なたで寝ていたり、座ったりして動かない。子供なんかは飛んだり跳ねたりけんかしたりするものですが、そんな元気は全くなくて、無気力にただ座っているだけの子がたくさんいました。

あるとき、キューバやメキシコからの救援物資だとして、サトイモみたいなものが配られたのですが、これが食べられたものではない。粉にして蒸しパンなどで食べたのですが、味はしなくて、おなかもこわしてしまった。食べ物がなかったのは本当につらかったですね。(聞き手 大野正利)

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