話の肖像画

楊海英(3)「抄家」で奪われた全財産

文化大革命時代の母、バイワルさん(右)
文化大革命時代の母、バイワルさん(右)

(2)へ戻る

《文化大革命(文革)が2年目に入った1967年、家族を取り巻く環境が暗転する。「身分を画定する運動」が始まり、父と祖母が「反動的な搾取(さくしゅ)階級の牧主」とされたのだ。将来有望な共産党員でありながら反動分子に嫁いだ母は「政治立場不穏」とされ、政治集会に呼ばれなくなった》

人民公社の幹部たちは母に離婚を勧めていたそうです。父は離婚に応じていたようですが、母は動じず、暗い雰囲気が一家に漂っていました。この年は干魃(かんばつ)で家畜が食べる草がほとんどなくなり、父は翌年夏、仲間4人で約100頭の馬を追って、遠く陝西(せんせい)省まで旅立っていきました。出発の朝、父は私をみて、「赤い人間の子はいいな」とつぶやいたといいます。赤い人間とは「出身の良い紅五類」で労働者、貧農下層中農、革命幹部、革命軍人、革命烈士のことで、父はその対極の搾取階級である「黒い人間」でした。

父は反党叛国(はんこく)集団の巣窟(そうくつ)とされた「延安民族学院城川分院」の卒業生でもあり、国を分裂させる危険分子とされていました。文革が激しさを増し、身に危険を察知して遠い土地での放牧を志願したのだと思います。

《父の予感は当たった。出立してほどなく、家に生産大隊の男数人が乗り込んできた》

モンゴル語で「抄家(チャオチャ)」と呼ばれる家荒らしです。反動分子の家に乗り込んで家財道具を没収し、抵抗する人をリンチにする。当時、私の家はレンガ建てで、まわりのモンゴル人たちは黄泥(おうでい)の家に住んでいたため、生産大隊の大隊長は「レンガ建ての家に住むとは絶対に許せない搾取行為だ」と怒鳴っていました。母が抄家に協力的だったのでリンチは免れましたが、布団以外の全財産を没収されました。

会員限定記事会員サービス詳細