梶本話の次は当然、米田哲也のお話。「ヨネカジ」コンビで昭和30~40年代の阪急を支えた大投手である。
米田は野球人生の中で3度、阪神のユニホームを着ている。プロ入り20年目の昭和50年、シーズン途中で阪神に移籍したとき。60年に吉田義男監督に招かれ、1軍投手コーチに就任したとき。そして31年、阪急に入団する前にたった2日だけ、タイガースのユニホームに袖を通したのである。
28年秋、阪急の丸尾千年次(ちとじ)スカウトは鳥取県米子市の人から「境高の1年生にいい投手がいるよ」と教えられた。それが米田哲也。スケールの大きな投球フォーム、伸びのある速球、すでにシュートやカーブも投げていた。一目ぼれした丸尾は3年生の夏の大会が終わるのを待って入団交渉。本人、家族同席のうえで契約し、パ連盟へ登録した。
ところが、これに驚いたのが米田の後援者たち。当時、後援者にはタイガースファンの人たちが多く「哲也を阪神に!」と動き出した。そして本人や家族を説得し阪神と契約を結ばせた。
12月22日にセ連盟へ登録した阪神に対し、阪急は27日に「ウチが先に契約を交わしている」とコミッショナー事務局へ提訴。〝二重契約騒動〟が始まったのである。
翌31年1月9日、米田が阪神の合同自主トレ(10日から甲子園球場で)に参加するため大阪にやってきた。そして心境を語った。
--いよいよ阪神入りを決めた?
「はい、お騒がせして本当にすまないと思っています。いまは阪神にすべてをお任せしています」
--いい人生経験になったろう
「いや、こんな経験はしたくないですね。ぼくの田舎の方じゃ、プロの難しい契約規則なんて知らないですし、仮契約とか統一契約書といわれても…。父もまずいことをしたと言ってます」
--阪神に決めた理由は
「阪急に比べてチームカラーがはっきりしているところ。同じプロの世界に入るなら、阪神のように人気のあるチームへと思いました。それに、田舎では阪神ファンが多かったし」
10日、米田はタイガースのユニホームに袖を通し、甲子園練習に参加した。背番号は「41」。ところが、翌11日にコミッショナー事務局から「裁定が出るまで練習に参加しないように」とストップがかかったのである。(敬称略)