話の肖像画

静岡大教授で文化人類学者・楊海英(55)(1)3つの名前と文革

静岡大教授で文化人類学者の楊海英さん(大野正利撮影)
静岡大教授で文化人類学者の楊海英さん(大野正利撮影)

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《3つの名前がある。家族につけてもらったモンゴル語の「オーノス・チョクト」、小学校時代からの中国名「楊海英」、そして帰化した現在は日本語の「大野旭(あきら)」だ》

オーノはモンゴル語で草原に生息するガゼルのことで、オーノスはその複数形。チョクトは炎や力を表します。これが家族から与えてもらった私の名前です。日本に帰化するときに発音から名字を「大野」、名前は炎や力に通じる、1日の始まりの「旭」としました。日本名はモンゴル語の意味を取り入れたものです。

一方の中国名ですが、中国語でガゼルは「黄羊」で、祖先が清朝時代に中国名を名乗るとき、「羊(ヨウ)」ではカッコ悪いので同じ発音の「楊」を充てました。「海英」はペンネームで、この中国名はモンゴル語との関係は薄い。私が小学生だった1974年、中国語教育に切り替わり、モンゴル語が禁止された。それで中国名を名乗るしかなくなったのです。

《中国のモンゴル人への圧政は名前や言葉だけではなかった。2歳のときに文化大革命(文革)が始まり、中国全土で政治闘争が吹き荒れ、特に故郷である内モンゴル自治区は多くの人が犠牲となった。自著『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』には、自身の体験がつづられている》

5歳のとき、母と馬に乗ってシャリクという町の人民公社本部を訪ねました。ちょうどそのとき、共産党幹部たちは宴会を開いていました。文革の混乱期で私たちはろくな食事もできなかったのですが、ヒツジの肉の食べ残しが山のようにあった。すごく暑い日で、今でもあのときの肉スープの香りを鮮明に思い出します。

その宴会を横目に、母は同じモンゴル人女性と抱き合って泣き崩れていました。女性の背後にはやせ細った老人がいて、小さな白木の箱を抱えていた。後で母に聞いたのですが、箱には女性の夫で老人の息子の遺骨が納められていた。