勇者の物語~「虎番疾風録」番外編~田所龍一(41)

「毎日」の主将 「1年やったら新聞記者に…」30歳で入団

毎日オリオンズで主将を務めた西本幸雄
毎日オリオンズで主将を務めた西本幸雄

■勇者の物語(40)

昭和25年3月、新生・プロ野球は幕を開けた。セ・リーグは大映から移籍した主砲・小鶴誠を中心にした松竹の〝水爆打線〟が爆発。中日に9ゲーム差をつけて優勝。パ・リーグは新球団の毎日が5月に15連勝するなど、2位の南海に15ゲーム差をつけて圧勝した。まぁ、タイガースからあれだけ主力選手を引き抜いたのだから、当然の結果といえた。

54勝64敗2分け。毎日に28・5ゲーム差をつけられ4位に終わった阪急は惨めだった。毎日の加入に尽力したために、セの球団から大量の選手を引き抜かれ、その毎日に5勝14敗1分けと惨敗。しかも毎日の「監督」が球団創設時にタイガースに奪われた、あの若林忠志(選手兼任)というから、踏んだり蹴ったり。

だが〝運命〟とはおもしろい。その毎日の優勝メンバーの中に、30歳でプロ野球の世界に飛び込み、主将を務めた西本幸雄がいたのである。

筆者が親しくなったのは、西本がスポーツニッポンの評論家となった昭和57年から。後楽園球場の産経の記者席がスポニチの隣にあったおかげで、いろんな話を聞くことができた。

昭和21年に大陸から復員した西本は、社会人野球の強豪、八幡製鉄に入社した。だが、試合にあまり使ってもらえない。しかも業務は厚生年金係で周囲は女性ばかり。わずか1年で飛び出した。

「野球のやれる職場」を探し、今度は九州の星野組に入った。当時はプロ野球も復活していたが、まだまだ、不安定な職業。西本にその気はなかった。

「野球を職業にしようとは思わんかった。ただ、野球を手段に地味な生活に入ることが大切-と思っていた」

星野組で監督も兼務させられた西本は24年、第20回都市対抗野球で優勝。そのころから将来に不安を感じ始めていた。社会人野球とはいえ星野組はセミプロに近い。「このまま野球ばかりやっていて、将来は大丈夫なのか」という不安だった。星野組を辞めようか…そう思っていたところへ、毎日新聞に勤める友人から、創立したばかりの「オリオンズに来ないか」と声をかけられたのである。

--どうしてその気のなかったプロ野球に、しかも30歳で入団する気に?

「1年やったら、新聞記者にしてやると約束してたんや。ほんまやったら、お前らの大先輩になっとった」。25年の優勝さえなかったら…まさに〝運命のいたずら〟である。(敬称略)

■勇者の物語(42)