この物語のタイトルでもある『勇者』には、いつなったのだろう。勝負事に「たら、れば」はない。これはその〝もしも〟のお話である。
太平洋戦争が終わった昭和20年、終戦からちょうど100日目の11月23日、プロ野球は復活した。神宮球場で日本職業野球連盟の「復興記念東西対抗戦」(4試合)が開幕したのである。
翌21年には8球団によるリーグ戦が行われた。初の完全1シーズン制。序盤は阪急軍と東京巨人が首位に立った。だが、6月に入ると大阪タイガースが14連勝。8月には近畿グレートリングが11連勝し一気に浮上。最後は巨人と近畿が競り合い、最終戦で近畿が勝利して初優勝を果たした。阪急軍がよかったのは6月まで。頼みの投手陣が崩れ、結局、4位に終わった。
22年になると球界で「大リーグのようにニックネームを付けよう」という機運が盛り上がった。これを機に球団名まで変えるところもあった。
優勝した近畿グレートリングは南海ホークスに復活。中部日本は当時、オーナーだった杉山虎之助(中部日本新聞社長)の干支(えと)が「辰」だったことから「ドラゴンズ」を採用した。
東京巨人=読売ジャイアンツ
東京セネタース=東急フライヤーズ
パシフィック=太陽ロビンス
ゴールドスター=金星スターズ
そして阪急軍も前年の4位から心機一転。〝たくましい力〟〝愛される球団〟をめざし、「ベアーズ」と決めスタートを切った。
ところが、オープン戦に入ってもいっこうに元気がない。すると電鉄本社の幹部から、ベアーズは「株式用語で〝売り方〟とか〝弱気〟の意味がある。縁起でもない」と批判が殺到。「もっとたくましく勇壮で明るい名前に変えるべきである」の声が起こったのである。
箕面の動物園や宝塚新温泉の温水プールのように、「失敗」と思ったら即座に撤退。すぐさま新しい企画を立てる。これが阪急・小林一三流。ニックネームもすぐさま変更。今度は一般から名前を募り、シーズン開幕日の4月18日、「エレファンツ」「ドラゴンズ」などの候補の中から「ブレーブス」(勇者たち)を採用した。
もしもあの時、オープン戦でいい結果を出していたら、この企画のタイトルは『クマさん物語』になっていた。<ホンマ、負けてくれてよかった>である。(敬称略)