新型コロナウイルスの感染拡大で1年延期が決定した東京五輪は、23日で開幕まで1年となった。1980年モスクワ五輪フェンシング男子代表の千田健一さん(63)=宮城県気仙沼市=は、日本の不参加で五輪出場の夢はかなわなかった1人。コロナ禍で来夏の五輪開催が不安視される中、千田さんは「みんなでつながりを感じながら、楽しめる五輪になってほしい」と希望を託す。
フェンシングで昭和55年2月に国内ランキング1位となった千田さんは、モスクワ五輪男子日本代表に内定。ただ、当時の国際情勢は冷戦の最中で米国とソ連(当時)が対立し、同年5月に日本の不参加が決定した。千田さんは「出場への淡い期待はあったが(不参加は)大きな衝撃だった」と当時を振り返る。
東京五輪は新型コロナウイルスの感染拡大で1年延期が決定したが、「無事に開催されるのかという期待と不安が、選手の中に交錯していると思う。モスクワの時と似ている」。コロナ禍の不透明な状況を、千田さんは自らの経験と重ね合わせる。
大学卒業後、高校教員となった千田さんは25歳で現役を退き、57年から地元・気仙沼の県立鼎(かね)が浦高(現・県立気仙沼高)に着任。当時、周囲からは「引退は早すぎる」との声も上がったが、指導者として選手育成に情熱を燃やした。2008年北京五輪、2012年ロンドン五輪に出場した長男の健太さんや菅原智恵子さんは、手塩にかけて育てた教え子だ。
気仙沼高で教頭を務めていた平成23年、東日本大震災が発生。同校は津波の被害を逃れたが、地域住民が避難。当時は避難所の運営に奔走した。震災は発生から来年で10年。来夏は聖火ランナーとして地元の気仙沼を走る予定だが「復興を盛り上げる意味でも走りたい。ただ、五輪は安心、安全な大会でなければならないという葛藤がある」と複雑な胸中をのぞかせる。
「選手の並々ならぬ努力を発揮できる場を作ってほしい」と訴える千田さんは「コロナ禍が収束し、無事に開催されれば、宮城ではサッカー、福島では野球とソフトボールが行われる。東北の人々にとって、五輪を身近な存在として感じることができる」。言葉に力を込めた。(塔野岡剛)
ちだ・けんいち 昭和31年8月生まれ。宮城県気仙沼市出身。同県立気仙沼高校卒業後、中央大に進学し、3、4年時に関東学生選手権で連覇。大学卒業後は栃木、宮城県内の高校で教員を務めた。平成28年に定年退職後、気仙沼市体育協会で事務局長に就任。地域の子供たちにフェンシングを指導している。