話の肖像画

セブン&アイHD名誉顧問・鈴木敏文(87)(5)「失敗した…」ヨーカ堂入社

東販在籍中の昭和34年に結婚した美佐子さんと旅行先で
東販在籍中の昭和34年に結婚した美佐子さんと旅行先で

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《出版取次大手の東京出版販売(東販、現・トーハン)の「弘報課」で、読者向け新刊書籍の広報誌「新刊ニュース」を担当。内容を刷新して無料から有料に切り替える改革を提案し、企画、取材執筆、編集など一手に引き受けた》

新刊ニュースは読者が買う新刊本の宣伝雑誌でしょ。作家の人たちも自分の本を買ってもらえるということで、版元(出版社)さんにいえばどんな人にも会えた。丹羽文雄さん、井上靖さんとかね、お宅に伺ってお話を聞いて。必ず近刊書をいただいていたんだけど、みんなあげちゃった。

印象深かったのは谷崎潤一郎さん。当時は誰も会えなかったのが、中央公論社に紹介してもらい、熱海のご自宅に行って、「先生、お願いします」と対談をお願いした。すると、「有馬稲子、岡田茉莉子、淡路恵子の誰かとなら対談するよ」との返事。調整したら、淡路さんの日程が合うということになり、谷崎さんと対談してもらった。東販では本当にいろんな人たちに会え、新刊ニュースは全国のPR誌コンテストで優勝を取ったこともある。その意味ではね、新刊ニュースを担当したことは財産になったよね。

《知識人との交流が、その後の転機を導いた》

評論家の先生ともお付き合いがあって、大宅壮一さんの弟子の人たちとも仲良くしていた。出版物の売り上げは伸びていた時期ではあったけど、弟子の人たちがこう言ったんだ。「これからは電波(テレビ)の時代だ」。それなら独立プロダクションを作ろうじゃないかと話が進んで、スポンサーを探すことになった。

スポンサー探しにあたり、思い出したことがあった。その1年ほど前に漠然と転職を考えていて、友人に相談したことがあった。その友人から紹介されたのが当時のヨーカ堂で、紹介された手前、一度は会ってみようと東京都足立区の本社を訪ねたんだ。スポンサー企業を思いつかないでいた僕は、ヨーカ堂のことを思い出して再訪した。そこで独立プロの設立構想を話し、スポンサーになってほしいと打診したら、「どうせならうちに来て、(独立プロのスポンサー探しを)やったらどうか」と持ち掛けられたんだ。

そのころはヨーカ堂なんて、名前も知らないよ。5店舗しかなく、それも全部が東京の下町。「総合スーパー」なんて業態も知らなかった。流通の仕事にも関心がなかったが、独立プロという目標もあって転職を決意した。30歳のときのことだ。

東販では組合書記長もやったりして仲間内では重宝がられていたから、辞めると言ったら猛反対された。26歳で結婚していて家内はどうこう言わなかったけど、親きょうだいは東販という名前が通った会社から、スーパーなんてよく分からないところに行くなんて、と反対された。でも、僕はね、独立プロのためにスポンサーを紹介してくれると思っていたからね。

昭和38年9月12日、再訪から1カ月で入社した。すぐ上司に「独立プロのスポンサー探しはいつやれるのか」と聞いたら、「まだ将来のことだ」と即座に言われてね。そのとき人材がほしかっただけだと気づいたんだ。本当に失敗したと思った。悔しかった。でも入社しちゃっているし、散々反対され、そらみたことかと言われるのもしゃくに障る。また辞めるわけにいかないでしょう。だから入社日は印象に残っている。(聞き手 日野稚子)

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