土壇場で阪神に奪われた若林忠志に代わって、背番号「3」を付けたのが石田光彦である。当時、阪急は〝埋もれた人材〟を探すために入団テストを行い、合格第1号(入団は3番目)となったのが石田だ。
山口県出身で軟式野球クラブの「東京リーガル協会」で投手をやっていたという全くの無名選手。ところが、その投法が変則だった。
投球前にクリスチャンでもないのに胸のところで十字を切る。振りかぶって左足を上げるとクルリと打者に背中を見せ、足を大きくスイングして投げる。いわゆる〝元祖トルネード投法〟。腕の位置も投げるたびに変わり、相手の選手からは「チャプリン投げ」と言ってからかわれた。
だが、その幻惑投法でシーズン2年目の昭和12年7月16日の東京セネタース戦では、球団初のノーヒットノーランを達成したのだから大したもの。こうして着々と選手たちが入団した。
背番号順に9人を紹介すると-。
「1」宮武 三郎 投(慶大)=主将
「2」山下 実 内(慶大)
「3」石田 光彦 投(豊浦中)
「4」川村 徳久 内(立命大)
「5」日高 得之 外(平安中)
「6」渡辺 敏夫 内(法大)
「7」中村 一雄 内(中外商)
「8」島本 義文 捕(横浜高工)
「9」山田勝三郎 投(明石中)
さて、最後は監督を誰にするか。村上には理想像があった。
「ベースボールの頭脳の点において、現在の野球界において、その後の職業野球団、選手を育ててゆくに足りるだけの知識および技能を有することは必須のこと」
候補に挙げたのが慶大の先輩、三宅大輔。彼は昭和9年に発足した「大日本東京野球倶楽部」(東京巨人)の監督にすでに就任し、翌年のアメリカ遠征で采配をふるっていた。やはり無理か…と諦めかけたある日、その三宅から電話がかかってきた。
「最近、ちょっと考えることがあって巨人軍をやめたから、阪急の監督を引き受けてもいいぞ」
村上は喜んで三宅を初代監督(技術面)に迎えた。
こうして11年1月23日、「大阪阪急野球協会」は発足した。本拠地は宝塚球場。チーム編成に奔走した村上は事業面担当の「監督」に就任した。(敬称略)