勇者の物語

背番号「1」 超一級の二刀流に三顧の礼 虎番疾風録番外編28

慶大時代の宮武三郎(右)。左は早大の小川正太郎
慶大時代の宮武三郎(右)。左は早大の小川正太郎

■勇者の物語(27)

球団編成を任された村上実にゆっくり構えている時間はなかった。さっそく獲得交渉へ乗り出した。

当てはなくリストに挙げた慶応出身の選手なら、同じ釜の飯を食った仲。なんとかなるかもしれない…という心細い見通しのみ。村上は第1候補に宮武三郎に白羽の矢を立てた。

当時、クラブチームの「東京倶楽部」に所属していた宮武は、高松商業時代から「四国の麒麟児」といわれ、1学年下の水原茂とともに大正14年の夏の甲子園大会に出場し、全国制覇を果たした。

慶大に進学し、1年生で昭和2年春のリーグ戦の開幕戦(帝大戦)に登板。6安打完封勝利を挙げ、打っては1ホーマーを含む3安打と大活躍。以後、6年3月に卒業するまで、7シーズンで優勝4回、2位3回と慶大全盛期を担った大エースである。後から早大に入学してきた小川正太郎との白熱した投げ合いは、「早慶戦一番の名勝負」といわれた。

投げるだけではない。打者としても主軸を務め、通算打率・304。7本塁打は32年に立教大の長嶋茂雄が8本と更新するまで、26年間も破られぬ大記録となった。

村上は11月下旬、上京して東京会館で宮武に会った。だが、返事は「もう、東京セネタースと5年間1万8000円で契約した」という。

落胆した。だが、よく話を聞いてみると、まだ契約書に署名捺印していないことが分かった。「セネタースとの契約が完了していないんなら、ぜひウチに来てくれ」。村上は阪急という企業のことや創業者小林一三の発想のすばらしさ、チーム作りのポリシーなどを熱く語った。すると-。

「分かった。セネタースの話の際にお世話になった方々と相談してから決める」と態度が軟化した。それから1カ月、村上は宮武の後援者たちと次々に会い、そしてついに契約に漕ぎつけた。

「阪急軍」の契約第1号。初代主将を務め背番号「1」を付けた。面白いのは背番号が本人の希望でも、彼が投手だったからでもなく、単に一番初めに入団した選手だから-という理由で「1」となった。

余談だが宮武の阪急在籍はわずか3年で終わっている。体調を崩し選手を続けることができなくなったからだ。戦後は実業団野球の監督なども務めたが、昭和31年12月1日、狭心症のため46歳の若さで死去。宮武の娘さんは元阪神のエース小山正明夫人である。(敬称略)

■勇者の物語(29)

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